2015年1月4日(日)
アタマが切り替わっていない。ブログ2ページ続けて2014年としてしまった。
2015年、高校を卒業して満40年ということか。
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今年最初の主日礼拝に出席。
開始前、神学大学報に「すごく良いことが書いてある」と次男が嬉しそうに言ってよこす。以前僕らの教会の伝道師として奉職されたNM先生の、夏の公開講座主題講演要旨で、冒頭句が既に決め言葉である。
「信仰とは、ただ『神はいる』と思うこととは異なります。」
では、信仰とは何か?数行後に示されるそのココロは、
「信仰とは、ただ神はいると信じるだけではなくて、イエス・キリストを信じる信仰です。」
というのである。
冒頭句はヤコブ 2:19 を踏まえているようだけれど、ヤコブのそれは信仰の実りとしての行為の意義を強調したものなので、これを講演でどのように使われたのかは伺ってみないと分からない(見当はつくが)。ただ、さしあたりこれで十分だ。僕の場合、二つのことが「not only A but also B」ではなく、「not A but B」の関係になる。Aは「神はいると思うこと」、Bは「イエス・キリストを信じること」である。
神が存在するかどうか、僕は知らないし、分からない。どちらかといえば、存在を疑っている時間の方が長いかも知れない(信徒のくせに!?)。にも関わらず、あるいはそれだからこそ、キリストの十字架と復活を信じる。あるいは信じることに賭ける。
そういうことだったよな、と年の初めに確認した。
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TV収録は、めでたく昨年のことになった。繰り返し書いたとおりスタッフ一同きわめて支持的で、ほとんど注文をつけられるということがなかったが、第1回目イの一番に言われたことが、
「先生、笑ってください!」
笑う・・・んですか?別に可笑しくないんだけど・・・
「オジサンがニヤニヤしてるのって、ブキミくない?」
「そんなことないですよ、今ちょっと怖い感じです。笑顔、いいですよ、笑ってください。」
見回せば、3台ほどのTVカメラのレンズ直下に、いずれもまん丸の笑顔マークがぶら下げられている。僕だけじゃないということだが、モニターに映し出されたリハーサル映像は、なるほどけっこう怖い顔だ。昔から、真顔で論じていると「そんなに怒らないで」と宥められることがあり、怒ってるんじゃないのにと心外だったものだが、これではごもっともだ、こういう感じにふくらむフグがいたな・・・
覚悟を決めてニヤ~と思いっきりニヤけてみたら、「そう!いいです、それです」と声がかかる。ほんとに、この表情なの?ヘンでしょうに・・・。
収録終えて、表情筋がしっかり凝った。
TVはさておき、笑顔を心がけるのは意味があるかもしれない。外交上の効用ではなく、自分に対する利益である。例の「感情の末梢起源説」でいくなら、幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せを感じることになる。「笑門来福」とはそのことを言っているだろう。
「幸せ」と言ったが、人が笑うのはどういう時か。ギャグ・漫才のレベルから、成功の予感といった功利的なもの、毒々しい皮肉の笑い、しみじみとした幸せ、生命感の充溢、不幸のさなかの達観等々、そこに託されるものは、悲しみや怒りよりもずっと複雑で深いように思われる。
とりあえず笑顔を作ってみる。そこに自分は何を込め、何を感じるか、人としての器がはしなくも露呈するようである。とりわけ自分にとって意味があると思うのは、「感謝」の表出が静かな笑顔になるはずだと思うからだ。いつも怖い顔をしているのは、真剣さよりも不満・鬱屈の結果ではないだろうか。
あ、そうか、わかった!
慾ハナク
決シテ怒ラズ
イツモ静カニ笑ッテイル
これがそれだ。
僕には難しい、年頭ならぬ終生の「目標」である。