2015年1月17日(土)
センター試験、ご苦労さま。
受験生もご苦労さまだが、あれは試験監督も疲れるのだ。日頃の学内試験の比ではない。不安や緊張がかくも鋭敏かつ強力に伝わることを、会場校の教員として協力した桜美林の数年間にとっくり経験した。問題を配布し始めてから用紙の誤配に気づき、補助の学生たちと学内の試験本部まで息を切らして往復したこともあった。
ある年、何か事情があったのだと思うが、殊の外気を遣って一日目の監督にあたった。定員250だか400だかの大教室だったと思う。窓際と廊下側では採光も暖房も条件が違うから、こまめに室内を巡視して適宜調整する。むろん、足音は忍者のように秘めて歩く。
支給されたマニュアルは、念が入りすぎて少なからずくどい。
「毎時間、同じアナウンスを聞かされて『またか』と思うでしょうが、それでも間違える人がいるからね、辛抱しておつきあいください」などとおっとり語りかけると、それだけでも空気がなにがしか緩む。
いっぽうで、
「リスニングのトラブルで最も多いのは『装置の不具合』ですが、昨年の報告では『不具合』の99%が実は操作ミスでした。今から説明するとおり、落ち着いて操作しましょう。」
などと、マニュアルにない言葉を加えてみたり。
実は、こういう配慮は文科省的には「×」かもしれないのだ。そういう配慮を受けた会場と受けない会場では、受験生のパフォーマンスに差が出るかも知れない。公平性の観点からは、決められたこと以外なにも言わず、なにもしないのが正解である。
こういう場面で(何も考えずにマニュアルを墨守するものは別として)、公平性を重んじて厳格にマニュアルを遵守するタイプと、軽微な逸脱の危険を犯してでも目前の受験生に配慮するタイプと、人が二つに分かれるのではないかと思ったりする。僕は葛藤しつつ後者に傾く性格で、だから医者だの教師だのが性に合っているのだろう。
ただ、数百名の殺気だった若者が集まった空間では、些細なきっかけで思いがけないトラブルが起きることも考えられる。彼らの殺気をいくらかでも鎮めておくことは、単なる親切だけでなくトラブルを防止する意味をもった、僕なりのピラト的保身でもあるのだけれど。
何しろ一日が終わった。外は真っ暗である。忘れ物、特に受験票に注意を促し、ねぎらいの言葉で締めくくると、空気がホッと緩んで人が流れ出す。
その中から、男子が一人こちらへやってきた。正面から僕に向かって、
「今日はありがとうございました」
そう言うと丁寧に頭を下げた。
この青年にとりたてて便宜を図ったわけではない。会場を埋めた多数の受験生の一人である。その中から彼一人が、こうしてやってきた。
祝福された青年よ!このように感謝する力をもった君は、人生の成功者となる資質を豊かに与えられている。今頃、どこでどうしているだろうか。