2015年1月18日(日)
小学科の礼拝は、第八戒『盗むなかれ』。
ただし、主題聖句として下記を引いている。
「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。」
「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(テモテⅠ 6:6-10)
テモテのそれは死生観に関わる金言だが、概ね個人道徳に訴える形で書かれている。第八戒を守れない理由を貪欲に求めるのも至当、ただし、これには別の展開の方向がある。
「貧困」だ。
我々が豊かに恵まれているとき、掟を守るのは難しくないし、敢えて犯す者の貪欲を心安らかに糾弾することもできる。しかし現実には、この禁を犯さずには生きていけない者が存在する。ジャン・バルジャンは象徴だが、何も19世紀のフランスに戻る必要はない。この世界に、わが社会にすら、実例には事欠かない。
午後の餅つきに、お腹を空かせた、よその子どもが来たらどうする?
「分ける!」
と20人の子供らが迷わず答える。
君たちもお腹が空いていたら?相手の子どもが怖い顔をして、脅かすように要求したら?
「・・・分ける!」
子供らは天使のようなものだ。事実、彼らはそうするだろう。大人が、できないのである。
***
話していて気がついた。モーセの掟は個人に対して与えられたのではない、旧約の共同体に対して授けられたのだ。共同体の全員が戒を犯さず、ひとりも盗むことなしに生きられるためには、全体が分け合うことができなければならない。
「皆が分け合わないと、誰かが盗まなければならなくなる」
この認識から貧困との闘いが始まる。ユダヤ人の中から多くの社会主義者が出たことを、彼らの疎外状況や国際的連帯の方向からばかり考えていたが、さらに素朴にして深い淵源がここにあったかもしれない。
もちろん、キリスト教が継承したはずのことでもあるのだ。
「十戒はひとりで守るものじゃなくて、皆で守るものなんだよ」
分かりましたか、石丸君?