散日拾遺

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大洲のお城

2015-04-01 22:20:31 | 日記

2015年3月31日(火)

 

 今日は新幹線から掛川城を見たが、2週間ほど前には予讃線から大洲城を見たのだった。掛川城を紹介して、わが大洲城に触れないのでは、伊予の人々に申し訳が立たない。掛川城に比べて政治的な重要性がどうか分からないが、異例なほど豊富に残された資料に基づき、地元民間の浄財を得て、本来の工法に忠実に復元されたことや、その過程で建築基準法に固執する国・県に対し、市が粘り強い折衝を行って理解を勝ち取ったことなど、復元の経緯は他に類を見ないようだ。

  

(http://www.quizoo.jp/)

 

 ついでながら、全都道府県を漏れなく行脚した『フーテンの寅』シリーズは、愛媛では松山でもなく宇和島でも西条・今治でもない、ここ大洲を舞台にして撮影された。 

 『男はつらいよ ~ 寅次郎と殿様』、マドンナは真野響子だった。

 

(http://blowinthewind.net/torasan/19.htm)

 

 *** 以下、コピペ ***

 

 大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道がある。また、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現八幡浜市)があり、大洲は歴史的にはややひなびた立地ながらも交通の要衝といえる場所にあった。宇都宮氏が創建した当初は、肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれた。

 江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えた。伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していた。また、明治維新後から現在にいたる地元住民の城郭への保護活動と、平成16年(2004年)に主に市民による寄付によって完成した往時を出来る限り忠実に復元した4重4階の天守も特筆すべき点である。江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓が国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されている。

 

 この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、元徳3年(1331年)のことであるといわれている。

 豊房には子がなく筑後宇都宮氏の宇都宮貞泰の子の宇都宮宗泰を養子に迎え、宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行うが、永禄の末期に毛利氏の伊予出兵に対して降伏した。天正初年に土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われた。しかし天正13年(1585年)にはその大野直之も豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ぼされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入封し、大洲城は一支城となった。

 その後戸田勝隆が城主として入ったが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、慶長14年(1609年)には淡路の洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。

 また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更(異説あり)された。元和3年(1617年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後加藤氏が12代に渡り大洲藩主として治め明治維新を迎えた。

 維新後は城内のほとんどの建築物は破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存された。しかし天守は老朽化と構造上の欠陥のために明治21年(1888年)に解体された。現在の天守は伝統工法を用い、平成16年(2004年)に復元されたものである。

 

 現在の天守は、大洲市市制施行50周年記念事業として平成16年(2004年)に竣工したもので、戦後初の当時の工法・木造で復元されたものである。明治時代に撮影された外観写真のほか、大洲藩作事棟梁の中村家に伝わる天守雛形(木組み模型)など内部構造を知ることができる資料が充実していたため、往時の姿をほぼ正確に復元することができた。このように、多くの資料が残ることは稀である。

 また天守の高さは石垣の上から19.15mあり、本来なら建築基準法で木造では認められない規模であったため、当時の建設省や愛媛県は建設計画をなかなか認めなかったが、大洲市により2年近い折衝を経て、保存建築物として建築基準法の適用除外が認められ、往年の複合連結式による天守群の復元に至った。天守の復元資金には、民間からの浄財が多く寄せられ、その寄付者の名簿は天守内にレリーフで残されている。

 天守の復元によって国土技術研究センターから第七回国土技術開発賞を受賞した。

  

(文と写真 Wikipedia)

 


新幹線で東へ ~ 謎の巨岩と掛川城、敦賀気比と浜松商業

2015-04-01 21:16:10 | 日記

2015年3月31日(火)

 

 津から大阪難波まで100分ほど、地下鉄に乗り継ぎ、面目を一新した梅田界隈を眺めながら阪急線へ移動するのが少々厄介である。その後の中二日は全く何の役にも立たず、31日に東京へ戻ってきた。新幹線の速さには毎度感心する。景色を眺めるのはいつも楽しい。

 

 名古屋・浜松間の北側の山裾に、大坊主が地面から禿げ頭をもたげたような奇岩がある。名前なんかがついているんだろうか。

 天竜川・大井川間のやはり北側に、小さいけれどきれいなお城が見える。先般の大洲城に、やや小ぶりながら比較してみたい麗容だが、どこの城だろう?新幹線が速すぎて駅名も見えないが、掛川あたりか?

 帰って調べたら、果たして掛川城である。今川麾下の朝比奈氏が築城し、後に徳川氏の領有に移る。徳川氏の関東移封で豊臣氏に譲られ、山内一豊が拡張改築したものが現在の建物で、徳川時代には常に譜代の入る要衝だった。ただし1854年の安政東海地震で大半が倒壊し、二の丸御殿は直後に再建されたが、天守閣の復元は1994年のことだという。日本初の木造復元天守で、2006年選定の日本百名城42番とあった。小さなロボット然として可愛らしい。

 

 名古屋を出てからは、川を数えて東上する。緑野を潤す矢作川や豊川は愛知の川、力を撓めた天竜川、川幅広大な大井川、安倍川、富士川まで、静岡の川はごつく大きい。神奈川に入って酒匂川、相模川は人里に呑まれた感じがする。新幹線から東急線に乗り換え、帰宅寸前に渡る最後の大河が多摩川である。黄昏近く、3~4人の釣り人が見えるのは、何が釣れるのかな?

 

***

 

 車内の液晶ニュース、センバツ準決勝で敦賀気比が大阪桐蔭に満塁本塁打2本(松本選手の二打席連続)で勝ったことが繰り返し流れる。福井県勢37年ぶりの決勝進出とあるが、37年前の話なら知ってるよ。

 1978年春の福井代表は福井商業、やはり猛打のチームで、チーム結成以来無敗記録を更新中だった。残念ながら決勝は中部対決で浜松商業に敗れた。この浜松商業はさほど強いとも思われなかったが、甲子園で一戦毎に力をつけた。特に二年生投手の左腕・樽井(後に法政大学、河合楽器)の成長が著しく、決勝は確か3-1のスコアだったかな。(調べたら、ほんとは2-0だった。)

 当時は愛媛代表の試合でなくても、よく見ていた。その証拠に、勝ち続ける浜松商業の穏やかな校歌がすっかり気に入って、今でも歌うことができたりする。ネットで検索したら、樽井投手の子息が同じ浜松商業から愛知大学へ進んで野球を続けるのだそうだ。   

 78年のセンバツといえば、一回戦で前橋高校が春夏通じてただ一度の完全試合を達成している。その時のピッチャーが松本(後に早大、野球指導者、ときどき高校野球解説に登場している)だ。37年ぶりに「松本」が空前の大仕事をする大会みたいだね。 

 

 ただいま!

 https://www.youtube.com/watch?v=Ufoaw6SZz0E

 (浜松商業校歌)