散日拾遺

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想定外の事態 / 付置の転換 ~ 敵対から共闘へ / 聞いてほしかったのだ

2015-04-07 09:07:06 | 日記

2015年4月3日(金)・・・振り返り日記

 

 日中は診療。ADHDを抱えつつ成人した若者が、このところ毎週やってきている。他におちついて話せる場所がなく、とりとめのない身辺報告が貴重なのだ。その終わりがけの会話。

「想定外の事態に弱いんですよね、自分。これもADHDの症状なんでしょうか。」

「それもあるだろうね、それだけじゃないだろうけれど。」

「そういう事態を避けるように、工夫もしてるんですけれど、でも」

「限界あるよね、予想できない時に起きるのが、想定外ってことだから」

「そうなんですよ、あ、そうだ!」

「ん?」

 彼の大きな目がクリクリと動いた。その笑顔が、抗議するような、揶揄するような、親しむような、一種複雑ないたずらっぽさを湛えている。何だ?

 

「昨日、いや一昨日かな、一昨日だ、テレビ見てたら、石丸先生が出てきたんです」

「テレビに・・・」

「出たんです、出たでしょ?」

 彼の妄想ではないんだな。そうか、一昨日は4月1日、放送が始まったのだ。

「それって想定外...」

「でした」

「だよね、う~ん」

「ちょっと困りました、そういう筋の人と知らなかったから」

「ご、ごめん」

 テレビの威力が早くも現れている。彼は放送大学の番組を好んで見るタイプではないから、チャンネルを変えながら流していて、まったく偶然に僕を見つけたのだ。そら、びっくりしただろう。

「せっかくだから、しばらく見てたんですけど」

「どうだった?」

「難しくて、よくわかんなくなっちゃいました」

 う~ん、あの内容でそれかぁ、だとすると・・・

 こちらも想定外のソースからアセスメント情報を得た次第である。

 

***

 

 患者さんからよく受ける質問に、「一日中こんな話を聞かされて、先生も疲れるでしょう?」というのがある。

 もっともな質問だし、申し訳なさやねぎらいも籠もっているわけだが、これは意外にそうでもない。なぜかというと、

 「確かに、聞かされる話は暗かったり重かったりですけれど、患者さんはそういう厄介な荷物と同時に、荷物を運ぶ力も同時に携えてきてくれるんです。しんどい体を運んでここまで来たこと自体がその現れで、良くなりたいと願う心や意志、そのためにする工夫、それら一切合切をここにもってきてくれる。僕らはその力を受けとって、できることならそれを増幅し、それをお返しする形で仕事をする。だからそれほど疲れないし、逆に元気をもらうことすらあるんです。」

 これは本当だ。それができる程度に健康度の高い人々だけを相手にしているのが、都市部のクリニックの臨床の甘さだという批判もあるだろうけれど。「医師らよ、なぜ往診しないか?」という非難がその先にあることを承知で、とりあえずここはこのように言わせてほしい。治療行為の原動力は、実は患者の側から出ている。

 だから・・・

 「病的なものと治療者との間に、単純な敵対的関係を作ってしまうと、とてももたないんですよ。サタンのほうが強いんですから。ただ、あなたの中の健康な部分と、私の中の健康な部分の間に連帯関係を築いて、それで一緒に病気と対抗していくと考えると、ぐっと作業がやりやすくなるんです。」

 「なるほど・・・」

 この話の相手は、自身ある種の援助職を目ざす青年である。話がいつになく響いたらしく、「それ、使えますね」などとつぶやいている。

 

 使えるのだ、実際。こういうことは決して得意でなかったが、職業で鍛えられたおかげか、いつの頃からか人並みの水準にはなっている。それが役立ったのが大学院の入試説明会で、真剣勝負の気合で志願者の投げかけてくる質問が、教員によっては「非難・攻撃」に聞こえてしまったらしい。防衛的になり、防衛的攻撃から悪循環の起きそうな気配が漂い始めた。こういうとき、人は敵対的な構図を自ら作り出してしまうのである。

 向こうは勉強したい、こちらも勉強を教えたい、そのために適切な環境や条件を設定するにはどうしたらいいか、そのための議論だと思えば、熱を帯びてもケンカにはならない。実際、この時はむしろ楽しかった。「連帯的付置」を指向することは多くの場面で役に立つし、それに熟練した者が賢者と呼ばれるのである。

 

 むろん、それが通じない場合もある。3月〇×日の阪急宝塚ホテルのバイキングのように、はじめから一方が他方を搾取する姿勢をとっている場合などが良い例だ。約束された料理が実際に存在せず、従業員が顧客を完全に放置するような状態で、非敵対的な構えをとるのはどんな賢者にも簡単なことではない。契約(=約束事)が守られないのでは、話にならない。

 

***

 

 「家内の認知症が進みましてね、直前に食事したことも忘れてしまうんです。それが日に三度三度ですから、私も切ないですわ。ところが、それを訴えるとね、ケアマネやたまにしか来ない娘なんぞが、『徘徊しないからいいじゃないの』とか、『夜間譫妄がないだけマシ』とか、そういうふうに言い返すんです。そんなことが聞きたいんじゃないんですがね。」

 「私も若い頃にはカウンセリングのまねごとをしていましたから、ケアマネなぞには言ってやりたいです、『カウンセリングを勉強し直してこい』ってね、しかしそれも疲れますから。昨年の今頃は、私自身が意識障害を起こして入院したのでしたから。」

 「愚痴です、愚痴、どうもすみませんでした。」

 

 皆、聞いてほしいのである。そして一言、言ってほしいのだ。

 「たいへんね、せつないでしょうね」と。

 それだけだ。