散日拾遺

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公布日と施行日

2015-04-13 23:37:18 | 日記

2915年4月13日(月)

 

 テレビの威力たるや驚くべきもので、4月1日の第一回放送の直後にさっそく学生から指摘があった。精神保健法の制定年が、教科書では1988年、放送では1987年になっているという。おっしゃる通り、恐れ入りました。

  なので「教科書がミスプリではないか」というのは、それなりに自分で調べた証拠と思われるが、結論から言えば、これはあながち、どちらが正しいとも言えないのだ。

  以下、回答(一部改変)

 

何某様:
 注意深く受講しておられますね。
 精神保健法は1987(昭和62)年に改正公布され、翌1988(昭和63)年7月から施行されました。このため公布日をとるか施行日をとるかで、年の標記が変わってきてしまいます。印刷教材では施行日、放送教材では公布日に従って記載したため、御指摘のような不一致が生じました。不注意についてお詫びいたします。
 公布日と施行日のどちらを優先すべきかについて、法律上の決まりは存在しないようです。たとえば日本国憲法は、施行日の5月3日を「記念日」としていますが、精神保健法については、「1987年」と標記する文献が多いようなので、これに従うことを考えています。
 御指摘ありがとうございました。

 

***

 

  回答としてはここまでなのだが、実はこの混乱にはちょっとした伏線がある。

 僕が医者になったのは1986年で、精神保健法の制定はその直後である。しかも、法の改正はお題目ではなく、僕らの実務に大きな影響を与えた。それを象徴するのが、「措置解除」である。

 旧・精神衛生法のもとでは、「経済措置」なる言葉と現実が存在していた。措置入院は自傷他害の恐れのある患者に対して適用される強制入院の態様で、本人の治療のために適用される同意入院と違って危機回避的・公安的意味合いが強く、いちだんと強制性の強いものであった。

 同意入院は現制度化の医療保護入院の前身で、本人の「同意」ではなく保護義務者の「同意」を得て行われる強制入院の制度である。措置入院は上述の目的から保護義務者の同意すら必要とせず、その代わり(現制度下では)精神保健指定医複数名の一致した判断が必要とされる。そして ~ ここがポイントなのだが ~ 措置入院の場合は、入院医療費の全額が公費負担とされることになる。

 

 なので、

 

 精神衛生法時代には、精神症状がおさまって措置要件が消滅したものの、なお入院が必要であるような患者に対して、本人や家族の経済的負担に対する配慮から、「措置入院の継続が必要」との診断書を医師が書き続け、措置入院が長期化するケースが多数あった。当時、たとえば措置入院の都道府県ごとの件数比較が公表され、著しく高い地域に対して注意が喚起されるということがあったが、なかなか是正されなかったのである。

 

 精神保健法の成立とともに、強力な行政指導によって是正されたのがこの問題であった。そして、医者になりたての僕らの仕事のひとつは、ワーカーの助けを借りて(というより、困難な家族調整作業などはほぼすべてワーカーがやった)経済措置を解除し、医療保護入院なり任意入院なりに切り替えることだった。その作業の開始の号令となったのが精神保健法の制定であったが、とりわけ現場の僕らにとって印象の強いのは、それが法として成立し公布された1987年9月ではなく、実際に施行された1988年7月だったのである。

 精神保健法の成立が「1987年」とされることが多いのは心得ていたが、印刷教材執筆の際ほとんど無意識に「1988年」を選んだのは、そういった体験的事情のためであったかと思われる。

 

***

 

 回答の中で、これまた筆が滑る形で「憲法記念日」に言及した。おかげで、これまで知らなかった「公布/施行」をめぐる逸話に注意を向けることになった。以下、wikipedia から拝借しておく。

 (文中に現れる「明治節」は、明治天皇の誕生日。現在、11月3日が「文化の日」とされているのは、1948年に公布・施行された祝日法によるもので、明治節ではなく日本国憲法の公布日を根拠としている。どちらにせよ、その意味を知る者が今どれほどいるか、怪しいものだ。)

 

*** 

新憲法の公布日・施行日をめぐる議論[編集]

日本国憲法の公布日および施行日については、その日をいつにするか議論があった。当時法制局長官であった入江俊郎は、後にこの間の経緯について次のように記している。

新憲法は昭和二十一年十一月三日に公布された。 この公布の日については二十一年十月二十九日[2]の閣議でいろいろ論議があつた。公布の日は結局施行の日を確定することになるが、一体何日から新憲法を施行することがよかろうかというので、大体五月一日とすれば十一月一日に公布することになる。併し五月一日はメーデーであつて、新憲法施行をこの日にえらぶことは実際上面白くない。では五月五日はどうか。これは節句の日で、日本人には覚えやすい日であるが、これは男子の節句で女子の節句でないということ、男女平等の新憲法としてはどうか。それとたんごの節句は武のまつりのいみがあるので戦争放棄の新憲法としてはどうであろうか。それでは五月三日ということにして、公布を十一月三日にしたらどうか、公布を十一月三日にするということは、閣議でも吉田総理幣原国務相木村法相一松逓相等は賛成のようであつたが、明治節に公布するということ自体、司令部の思惑はどうかという一抹の不安もないでもなかつた。併し、結局施行日が五月一日も五月五日も適当でないということになれば、五月三日として、公布は自然十一月三日となるということで、ゆく方針がきめられた。
公布の上諭文は十月二十九日の閣議で決定、十月三十一日のひるに吉田総理より上奏御裁可を得た。

 入江俊郎『日本国憲法成立の経緯原稿5』、入江俊郎文書[3]

なお、この閣議における議論に先だって、GHQ民政局の内部では、「11月3日」は公布日として相応しくない旨を日本国政府に非公式に助言すべきであるとの意見もあった[3]。また、対日理事会中華民国代表も、1946年(昭和21年)10月25日ジョージ・アチソン対日理事会議長に書簡を送り、明治時代に日本が近隣諸国に対して2回の戦争を行ったことを挙げ、民主的な日本の基礎となる新憲法の公布を祝うため、より相応しい日を選ぶよう日本政府を説得すべきであると主張した。しかし、アチソンは、同年10月31日の返信で、「11月3日」が公布日とされたことに特に意味はなく、日本政府の決定に介入することは望ましくないと書き送った。

こうして、日本国憲法は、1946年(昭和21年)の「11月3日」に公布、1947年(昭和22年)の「5月3日」に施行となった。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/明治節)

 


切り抜き2題 ~ 安保法制を支える民意

2015-04-13 21:26:18 | 日記

2015年4月13日(月)

 思いきって今日は完全休養。

 切り抜いたまま放ってあった新聞記事に、目が行ったりする。

 

***

 

 冷戦時代の、とある東欧の小国の笑い話。国家指導者御一行が野外で視察中、雨でもないのに書記長が傘をさして歩いている。

第一書記 「同志よ、雨は降っていませんが?」

書記長   「同志よ、モスクワでは降っている。」

 

  これを初めて聞いたときには、屈託なく笑うことができたはずだ。この種の現象が、基本的に「あちら側」のことだと思っていたからである。実は「こちら側」 でも似たような構造はあったのだが、「あちら側」に比べればずっと程度も軽く、相対的なものに過ぎない・・・と思っていたし、まずまず思うことができた。

 しかし、壁とともに「あちら側」が崩壊し、宿題は「こちら側」に託された。そして、相対的なのはこちら側の支配・被支配の実情ではなく、「あちら側」と「こちら側」の違いの程度であったことに思い当たる。

 下記の記事を拡大して読むと、ワシントンDCで降る雨のために東京で傘をさす我らが指導者の姿を、まざまざと見ることができる。

  (2015年3月30日(月)1面)

 

***

 

 ただし、指導者たちを非難するのは今では非常に困難だし、そもそも見当外れなのだ。何度選挙をやっても、彼らに対する「支持」が確認されるばかりなんだからね。

 それでもうひとつの記事。どこにでもある番組紹介のようだが、最後まで読めばオチが辛辣である。書き移しておく。

 「(昭和の青春と平成の青春と、青春のありように少しも違いはないが、しかし昭和初期を描いた)ドラマと現在の違いを筆者なりに考えれば・・・」

 この後ですね、

 「いま私たちをのみ込みつつあるのは、(昭和初年と違って)軍隊ではない。戦争のできる国を目指し、多くの人の人生を破壊した原発の再稼働を計画する政権を、なお支持する「民意」だろう。」(ライター・山家誠一)

 

 (2015年3月31日(火)朝刊30面)

 

 レントに読んだ聖句が呼応して、そら恐ろしいようだ。

 「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタイ 27:25)


出典 / 2年前の再現

2015-04-13 09:43:11 | 日記

2015年4月13日(月)

  出典を言い忘れたことを話の終わり頃に気づいたが、敢えて補足せずにおいたのが自分流だなと思う。質疑応答の時間がある、そこで誰か訊いてこないかなと、内心期待しているわけである。

 残念ながら質問なし。そもそも今年は質問そのものが一件も出なかった。いささか失望。

 午前の部の散会が告げられた後で、男子学生(放送大学の場合、「男子」という言葉は必ずしも「青年男子」を意味しない)がやってきて、おずおずとそのことを訊ねる。

 「そういうことは質疑応答の時間に訊いてくださればよかったんですよ、皆にお答えできたんですから」と、小言がましかったかな。でも、この点は日本人が見落とすことの多いミーティングのマナーである。質疑応答の時間は質問者(だけ)のためにあるのではなく、公共の利益に開かれている。記者会見や議会の代表質問も同じで、こういう場面で公益に配慮できる者を「おとな」と呼ぶのだ。

 答えは『徒然草』(第123段)。

 以前にも当ブログで取り上げたとおり、貧困と奢侈の中道にある真の豊かさについての、不易の金言と思われる。

***

 午後の部は昨日のゼミを経て待機していたM2に、新入生3名、それにOB2名が合流して計10名の充実した時間になった。新入生の所属SCが青森、千葉、山梨あらため福岡で、いずれもM2・OBの中に同じ地域の者があり、きれいにペアができあがった。M2同士の中に北海道のペアがあり、それからもうひとつ。

 OBのひとりが、2年前のブログで「休学中」と紹介した、わが同郷のY君である。

(2013年4月19日、『放送大学の新学期』)

 ということは、彼と僕がペアかぁ、う~ん・・・

 彼はその後みごとな集中力を発揮し、今春めでたく修了した。

 「審査の席で石丸先生に、『論文としてはともかく、企画書としてはよく書けている』とお言葉を頂戴しました」と言って回っている。そうだったっけか?

 彼のプロフィル、上記のブログからコピペ再記しておこう。「オジサン5人がY君を囲んで痛飲」というオチは、奇しくも今年まったく同じく再現された。場所も同じ、海浜幕張あたりの英国風パブ、これからどうなるんだろう?

***

 今年卒業したSさん、休学中のY君が応援にやってきて、それぞれ自分の研究をパワポで紹介する。
 新入生3人の平均年齢が53歳、僕もSさんもそれより上で、Y君だけが30代の若さだ。しかしある種の人生経験はY君がいちばん豊かであるかもしれない。
 お父さんは「個人事業主」だったが、顧客には小指の先がない人が多かったという。
 彼の学童期に仕事が失敗し、Y君は新聞配達などしながら上へ進んだ。今時でも苦学生というものはいるのだ。その後、地上げ屋、借金取り、スポーツインストラクターなどを転々とし、資格の類いは20を超えて所有する中に、アメリカで取ったMBAも含まれている。
 暗さもきわまる性格だったのが29歳で人が変ったという。
 何が閃いたのかロボットスーツに惚れ込み、その営業に喜びを見出して今は国の内外を駆け回る毎日。
 「この間は、ドイツ人を笑わせてきました」
 「ドイツ語で?」
 「いえ、英語で、というか日本語で」
 そうは見えないが、要素知能は相当に高いのである。
 「うんと社会貢献したら、愛人3人ぐらいは許されますかね?」
 どこからそういう発想が出るかな~・・・

 ユニークな個性を見ると、出身地が気になるのは僕のクセのようなもので。
 こいつ、どこの人間だろう、どういう土地からこういうフシギな人格が湧いて出るものだろうと、考えても見当がつかず、ここは直接訊いてみることにして、答にのけぞった。
 「愛媛です」
 「えひめ?」
 「先祖代々、松山です」
 「まつやま?」
 「先生、あの辺わかりますか?詳しく言えば、オヤジは菊間で、オフクロが松山なんですけど」
 「きくま?」
 菊間と松山、そのちょうど真ん中がわが父祖の地ではないか。
 気が遠くなった。
 こいつと俺と、同郷かぁ、う~~~ん・・・

 オジサン5人がY君を囲んで痛飲、帰り道は形而上学もデカルトもどこかへ消えてしまっていた。

Ω