散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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サロイヤン

2015-04-16 21:30:06 | 日記

2015年4月16日(木)

 

 しまった、そうか。

 サロイヤンがアルメニア人だったのだ。(アンドレ・アガシもね)

 

*** Wiki のコピペ ***

 

 ウィリアム・サローヤン(William Saroyan、1908年8月31日 - 1981年5月18日)はアメリカの小説家・劇作家。アメリカの庶民を明るく書いた。サロイヤンとも表記する。

 

生涯[編集]

 トルコ東部から1905年にアメリカへ移住したアルメニア人の末子として、カリフォルニア州のフレズノに生まれた。一歳半のとき父を喪い、4人の兄姉とオークランドの孤児院に入り、5年後、女工の母に引き取られた。学業半ばの12歳のときから、電報配達や新聞売り子などで稼いだ。作家を志し、1930年ころから、雑誌や新聞に書いた。

 1934年(26歳)、ストーリー誌(Story)に載せた『空中ブランコに乗った若者』によって知られ、以降、庶民の哀歓を、平易な文体で、明るくほろ苦く綴り続けた。映画の台本も書いた。

 1938年30歳のときの『わが心高原に』と、翌年の『君が人生の時』がブロードウェイであたり、1940年、後者に演劇部門のピューリッツァー賞が与えられたが、辞退した。同年出版の『我が名はアラム』は各国語に翻訳され、日本でも、真珠湾攻撃直前の1941年11月に、清水俊二の訳書が六興出版から刊行された。

 1943年(35歳)、シナリオを小説にした『ヒューマン・コメディ』を2月に出版し、翌月映画が公開され、1944年、それによりアカデミー最優秀脚本賞を受けた。これは『町の人気者』の題名で、1947年日本に公開された。

 1943年、まだ19歳だった女優のキャロル・グレイス(英語版)(後に『ティファニーで朝食を』のモデルとしても知られるようになった)と結婚し、2児を得たが、彼の性格と生活態度が原因で、1949年離婚し、1951年復縁し、そして翌年離婚した。サローヤンはまさに作家の絶頂期にあったが、キャロルによると無類のギャンブル好きで、暴力も激しかった。子供たちは、母親が父親に投げられ首を絞められるところを見ていた[1]。離婚後、子らはキャロルと暮らし、彼は、カリフォルニアの家やパリのアパートで独り暮らしした。

 夏休みの子らをヨーロッパに連れることもあったが、しだいに疎隔した。庶民の哀歓を明るく綴り続けた作家は、必ずしも温かい夫、優しい父親でなかった。

 息子のアラム(Aram Saroyan)(1943 - )は作家に、娘のリュシー(Lucy Saroyan)(1946 - 2003)は女優に、成長した。妻だったキャロルは、1959年ウォルター・マッソーと再婚した。

 1981年、前立腺ガンで、フレズノに没し、遺骨はカリフォルニアとアルメニアとに埋葬された。

 

おもな著作

行末の数字は「おもな翻訳書」の項の、行頭の数字に対応する。

 

小説

1933年:『七万人のアッシリア人』(Seventy Thousand Assyrians) 1

1934年:『空中ブランコに乗った若者』(The Daring Young Man on the Flying Trapeze) 2

1936年:『吸って吐いて』(Inhale and Exhale)

1936年:『三掛ける三』(Three Times Three)

1937年:『リトル・チルドレン』(Little Children) 3

1939年:『平和、それは素晴らしい』(Peace, It's Wonderful)

1940年:『わが名はアラム』(My Name Is Aram) 4、5

1941年:『冬を越したハチドリ』(The Hummingbird That Lived Through Winter) 2

1943年:『ヒューマン・コメディ』(The Human Comedy) 6、7

1944年:『ディア・ベイビー』(Dear Baby) 2

1946年:『ウエズリー・ジャクソンの冒険』(The Adventures of Wesley Jackson)

1950年:『アッシリア人たち』(Assyrians)

1951年:『ロック・ワグラム』(Rock Wagram) 8

1951年:『トレーシーの虎』(Tracy's Tiger)

1953年:『どこかで笑ってる』(The Laughing Matter) 9

1956年:『ママ・アイラブユー』(Mama I Love You) 10

1956年:『サローヤン短編集』(The Whole Voyard) 11

1957年:『パパ・ユーアークレイジー』(Papa You're Crazy) 12

1962年:『ガストン』(Gaston)

1964年:『世界の午後の一日』(One Day in the Afternoon of the World) 13、14

1968年:『昔は永遠を持っていると信じていたが、今は確かでない』(I Used to Believe I Had Forever, Now I'm Most So Sure)

1968年:『高地魂をもった男』(The Man With The Heart in the Highlands) 15

 

戯曲

1938年:『わが心高原に』(My Heart's in the Highlands) 16、17、18

1939年:『君が人生の時』(The Time of Your Life) 16

1940年:『懐かしき愛の歌』(Love's old Sweet Song)

1941年:『おーい助けてくれ』(Hello Out There) 16、18

1942年:『夕空晴れて』(Coming Through the Rye) 16

1947年:『腹を立てて帰らないで』(Don't Go Away Mad)

1958年:『洞窟の住人』(The Cave Dwellers)

 

自伝・回想録

1952年:『ビヴァリー・ヒルズの自転車乗り』(The Bicycle Rider in Beverly Hills)

1961年:『ご存じ、来る人去る人』(Here Comes There Goes You Know Who)

1963年:『死ぬのではなく』(Not Dying)

1978年:『思いがけない出会い』(Chance Meetings)

 

作詞

1939年:『家へおいでよ』(Come On-a My House)

 


アルメニア

2015-04-16 19:20:00 | 日記

 

2015年4月16日(木)

 

 アルメニアについて、何を知っているか?

 

 この名を初めて知ったのは多分中学生の時、エラリー・クイーンものの一つ『エジプト十字架の謎』によるものだ。

 連続殺人の被害者の一人がヴァンという名のアルメニア人だった・・・と思う、たぶん。

 アルメニアは国名ではないこともあって、地図になかなか見つからず、アルバニアの間違いじゃないかと疑ったことを覚えている。首なし死体がT字型に曝されるという設定で、その被害者の確か筆頭がアルメニア人なんだから、アルメニア筋から感謝されたとは到底思えない。

 次にアルメニアに触れたのは、凡そ30年後だった。ワシントン大学のオルニーのラボに、ある時アルメニア人の技官がやってきた。クリコア・デクラニアンという名で、通称ココと呼ばれていたが、その可愛らしい響きとは些か違ってなかなかしたたかな男だった。もっとも、したたかなのは彼の個性というより、出自のせいだったかもしれない。彼の奥さんもアルメニア人でやはり技官だったが、こちらはおっとりして気のおけない居ずまいだった。

 出自などと言うのも、アルメニア人は歴史の中で相当苦労してきたからである。早くから開けた文明をもち紀元前後には大いに栄えたが、西のローマ、東のパルティアついでペルシアに圧迫され、緩衝地帯のつらさを多年にわたって経験する。やがてイスラムが台頭し、ついでモンゴル、チムールなど歴代の覇者の馬蹄に繰り返し蹂躙された。10世紀以降、多くのアルメニア人が故国を捨てることになる(ディアスポラ)など、ユダヤ人を思わせるところが多々ある。

 下ってはトルコに圧迫され、19世紀から20世紀初頭にかけて多くのアルメニア人がオスマン・トルコに虐殺された。勢いロシアに庇護を求めることになるが、この庇護者の送り狼ぶりは、これまたユダヤ人に対するのと大同小異だったのではあるまいか。結果、全世界に存在する推計800万のアルメニア人のうち、本国に居住するのは300万人に過ぎず、かなりの数がロシアやアメリカに散らばっているというのも、類型的とすらいえる図式である。

 

 アメリカで繰り返し感じたことだが、こうした少数民族の出身者は概して歴史に詳しく、日本のこともよく知っている。歴史に詳しいのは、生き残るために歴史の知識と素養が不可欠だからだ。そして彼らが得てして日本に詳しいのは、どこか日本(人)のことを「少数者仲間」と見ているからではないか、という気がする。

 もしもそうであるならば、それは貴重な「資源」なのではないか。世界に散らばる少数者たちと無形無数の連帯を営むことは、現に羽振りの良い大国に追従することよりも、長い目で見ればよほど信頼性の高い安全保障戦略であるように思われる。

 

 それはさておき、

 

 ある時ココがにやりと笑った。

 「知ってるぜ、日本はロシアとの間に領土問題があるだろ?ロシアはタフだからな、だがね」

 こいつ何を言い出すのかと、少し気味悪く構えているのに、おかまいなくココが宣言した。

 「歴史ってのは変わるからな、いずれ風向きが変わってチャンスが来るかもしれないぜ」

 

***

 

 アルメニア全土に在住する日本人の数は?

 7人、だそうである。

 間違いではない、7人だ。

 

 車輪というものの使われた痕跡が、アルメニアは世界に先駆けて古いらしい。

 もうひとつの矜恃は、世界最初のキリスト教国ということである。十二使徒のひとり、バルトロマイが ~ 皮剥の刑で ~ 殉教したとされ、その種が芽吹き実って西暦301年にキリスト教が国教となった。

 僕は何となく「アルメニア正教会」と呼んでいたが、少なくとも彼ら自身は「正教会」ではなく、「アルメニア教会」と称する。いわゆる Greek Orthodoxy に先立つ由緒の正しさを誇るものだろう。東方教会の流れには違いないだろうが。

 アルメニア教会は、東方諸教会の中でも非カルケドン派に属し、その意味でエチオピア教会、コプト教会、シリア教会などと近いらしい。カルケドン信条(451年)のポイントはキリスト単性論の排斥だったから、それを拒絶するということは単性論をとるか、少なくともそれに親和性をもつことを意味する。だとすれば、僕らとはだいぶ構えが違ってくるはずだ。

 ネストリオス派もこれに近いはずだが、異端とされた結果として当方へ大いに波及し、唐代の中国で大流行することになるのだから、分からないものである。

 

 アルメニアにはほとんど何もないが、コニャックは逸品らしい。ロシアのウォッカ、グルジアのワイン、アルメニアのコニャックをもって、旧ソ連地域の三大美酒となす。

 

 今日の蘊蓄は、すべてT君の受け売りである。

    

左: アルメニアの衛星写真   右: 首都エレバン


パラオ共和国アルモノグイ州と日本国愛知県名古屋市南区道徳

2015-04-16 11:18:39 | 日記

2015年4月16日(木)

 両陛下のパラオ訪問が朝刊一面に報じられてから、ちょうど一週間。

 サイパンの連想もあり、いろいろ考えずにはいられないが、それとは別に「パラオ」という言葉が何だか引っかかり、もどかしい思いで過ごしていた。

 思い出すときには思い出すんだよね、そうだ、それだ。

 3月28日(土)朝、三重CMCCへの途次、風邪を押して名古屋まで立った新幹線から外を眺めていると、不思議な看板が目に入ったのだ。

 「パラオ共和国」

 確かにそう記されてある。その後にカタカナの地名が続き、最後が「出張所」だったか「事務所」だったか。

 のぞみが最高速度で疾走する区間だったら、こんなのとても読めない。中京病院の少し手前、名古屋駅に接近して減速するから目にも入ったのだが、それにしても。

 パラオ?

 何で名古屋に?

 

 こういう時はネットが便利である。「パラオ共和国 名古屋」で検索したら、いくつも出てきた。見間違いではなかったのだ。皆、僕と同じ「?」を頭の上に浮かべて不思議がっている。

 多弁は控え、そのひとつを紹介しておこう。

 http://toppy.net/nagoya/minami3.html

  「アルモノグイ州」に「道徳銀座」、地名を追っていくだけでむやみに楽しくなる。

 

 パラオの人々の素朴な親日感情に、心からの感謝を表しつつ。

 

  

 (写真は http://homepage3.nifty.com/bon_voyage/ichimai/24feb2008.html から拝借。ついでに撮影者の驚きも下記に転載:)

 海外の国などの大使館や日本事務所のほとんどは東京にありますが、何故か名古屋に、しかも名駅や丸の内といったオフィス街でもない我が南区にもありました! 車で走っていたらビルの壁面に「パラオ共和国アルモノグイ州日本事務所」の看板を発見。なんと1階にはフィリピンパブが入居しているビルでしたが・・・
 帰宅後にインターネットで調べてみると、アルモノグイ州はちゃんと実在する州のようです。