2015年4月8日(水)
予報通り氷雨の朝、今日の最高気温は8℃だそうだ。初の卒研ゼミに大阪・愛知・長野から集まってくる学生たちには気の毒だが、過ぎてみれば良い思い出になることだろう。
朝刊36面に、信州大学・山沢清人学長の入学式挨拶が大きく取り上げられている。
「スマホやめますか、信大生やめますか」
昔、「薬やめますか、それとも人間やめますか」という公共広告があったのを思い出した。薬とは覚醒剤のことで、依存症の恐ろしさに警鐘を鳴らしたものである。KLでフィリピンの学生にこの件を話した記憶があるから、たぶん1980年代前半だ。山沢先生がこれを本歌に取ったのかどうか分からないが、スマホ依存症への警告を語られたという趣旨は同一路線である。
思い切った表現をなさったものだと思う。僕などは度胸がないから、こんなふうには言えない。案の定、賛否両論、というより実際にスマホに浸りきっている学生の側からは、反発・冷笑必至である。
ただですね、こういう時に必ず出てくる「押しつけるな」という反応は、何ともいただけないんだな。現実に「スマホ禁止、違反者は信大生と認めない」などという強圧的な施策が成立するはずがない。そんな現状にないことは学長先生よくよく御存じで、それでもあえて物わかりのよい愛想笑いを捨て、壇上から一喝する頑固親父の思いやりにハッとしてほしいのだ。こんなふうに一喝してくれる学長先生に迎えられて幸せ、さすがは信大である。
それに、この件は冗談じゃないのだよ。先日T君を見舞いに行った帰り道、がらんとした電車の中で家内が僕の肘をつついた。10人あまりの乗客が、立っているのも座っているのも全て首うなだれ、黙々と親指を動かしている。
「不気味じゃない?」
「だよね」
何がいけないとは言わないが、どうにも不気味である。この感覚を失うことは、文化の終わりに等しい。
スマホの害ならいくらでもあげつらうことができるが、そのほとんどはマナーの問題や、心理・行動への二次的な影響であって、利便性は否定すべくもない。自分もガラケーが壊れたら、渋々ながらスマホに移行するだろう。その場合にも、この「不気味」感覚は失わずにいたいのだ。
「使い方の問題」・・・それで思い出すことがある。3年間の在米中に繰り返し経験したことだ。銃による悲惨な事件が彼の国では後を絶たない。一般人が自由に銃を持てる制度を、何で改めないのかと僕ら日本人は訝るが、自立自衛の植民共同体から立ち上がっているアメリカ社会において、銃を所持する権利は象徴的な意味をもっていて、おいそれとはやめられないのだ。
「とは言っても」とおずおず異論を立てるとき、銃所持賛成派が最後に言う言葉は決まっていた。
「銃が悪いんじゃないよ、使い方の問題、使う者のモラルの問題だ。」
もちろん、そうに違いないんですけどね。
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