散日拾遺

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忘れるため?忘れないため?

2019-01-06 08:39:26 | 日記

2018年12月11日(火) 頃のメモ

 忘れるために書くのか、忘れないために書くのか?両義それぞれあるような。

 共同体の記憶保存という観点から言えば、もちろん後者であろう。体験の印象が時とともに薄まって消え去ることを防ぎ、共同の記憶として永続的に定着することを目ざして書くのである。稗田阿礼(の名に象徴される一団)の口承から太安万侶(を代表者とする一団)の記述ヘシフトして『古事記』が形あるものとなった。福音書は主の復活を直接体験した生き証人らが世を去っていく時期に、証言を保存し体験を再現する資料として編まれた。(最古のマルコ福音書は西暦60年代の成立、十字架のできごとの30数年後である。)

 被爆体験などは、書かれたものがどこまでいっても体験者の語りの力に及ばないということがある。福音書も同じである。語り部は語り部で、どう語っても現実には及ばないというもどかしさがあるだろう。だからといって書くことを止められず、だからこそ語らずにはいられない。今は録音や映像といった前時代にはなかった技術が「書く」ということの意味を広げ、あるいは変質させつつある。どう変わっても、それで『黒い雨』の価値を下がることは決してあるまいけれど、等々。

 個人の場合、話が違う。一般化しては申し訳ないかな、自分の場合にはだいぶ話が違う。長年にわたって心の中で反芻してきたものを、何かのきっかけで文字に定着させたところ、反芻することが弱まり薄れ、いつの間にか思い出さなくなるということがあるようだ。共同体レベルの上記ことと矛盾するものではない。書かれた『古事記』が定着するのと入れ替わりに、口承という営みは不要と見なされ、やがて消えていったことだろう。同様のことが個人史の中でも起きるようだというのである。

 そこで選択が生じる。

 忘れたくないから、書きとめるのか

 忘れたくないから、書きとめないのか

 忘れたいから、書きとめないのか

 忘れたいから、書きとめるのか

 『書くことを拒む男』というプロットが浮かんだりする。周囲は書かせようとするが、本人は書こうとしない。どちらも、忘れたくないからである。

Ω