2019年1月19日(土)
貴人・聖者が卑賤のもの(不適切表現?)に身をやつして人の心を試すことには、古今東西夥しい例がある。『鉢の木』などもこの系列と言えば言える。フローベールに「La Légende de Saint Julien l'Hospitalier」という小品があり、これは放蕩の末に誤って両親を殺めた主人公が川の渡し守として贖罪の生活を送るところへ、キリストがハンセン病患者の姿で現れて少々無茶な奉仕を要求し、主人公の従順をみて天に伴なうというものである。作家出身地の教会のステンドグラスに、その伝説が描かれていたとある。
さて、衛門三郎が若き日の聖ジュリアン同様に憐れみを知らぬ人間であったとしても、八人の子をすべて奪う仕打ちはあまりに苛烈、そもそも親の罪を子の命に問う道理があるかと恨めしい。ただ、災害や戦争が子らの命を容赦なく奪うことは現実に起きるのだし、往時はいっそう頻繁だった。聖者が酷いのではなく、酷い現実を聖者が聖なる目的のために用いるのだと言えば言えるかもしれないが。
もう一つひっかかるのは「試みるものの気楽さ」とでもいったことで、聖なる高みにあって滅びを知らぬ存在が、有限の哀れな被造物に高いハードルを課してワナにかける構図への、義憤とでも言ったものである。翁に扮して自ら兎を嘲り、猿や狐の増上慢を誘発するのでは、まるで囮捜査みたいなものだ、天帝釈といい弘法さんといい、も少しマシなやり方はないものだろうか、等々
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もとより仏教について知らぬまま放言しているわけで、ちゃんと学べば心は深いのに違いない。今昔物語は文学史上の傑作だが、説話であって神学書ではない。聖書はどうなんですかと言われれば、もちろん同様のモチーフはいくつも見つかる - 全ての宗教に見つかるに違いない。
ただ、ここで護教的なスタンスをとるつもりはないけれど、聖書については付ける注釈がなくもないのである。
たとえばヨブ、彼は試みにあって衛門三郎同様にすべての息子・娘を財産もろとも奪われた。ヨブは正しい人なんだから誠に理不尽なことながら、災厄をもたらしたのは他ならぬサタンである。試み・誘惑・災厄は堕天使であるサタンから出るもので、神御自身は人の不幸を決して望まないという際どい弁別がある。とはいえ神がサタンの放恣を許したから災厄がヨブの身に及んだことには違いなく、そこから「なぜ?」という歴史とともに永い問いが生じ、今日もまたそれが問われることになるのだけれど。
もう一つはイサク捧げ。恩寵によって与えられた命より大事な一人子を、モリヤの山で犠牲に捧げよと神が命ずる。アブラハムの従順を見てすんでのところで神がこれを制するが、試み自体の外傷性は覆うべくもない。少年時代の大江健三郎は宣教師のバイブル講座でキリスト教に惹かれながら、イサク奉献が躓きとなってこれを離れたと書いていた・・・確か「ハックルベリー・フィン」を讃仰する文脈である。
郷土出身の大作家の仰せはまことにもっともながら、二つの注がここでありうる。
一つは、当時のカナン一帯の諸宗教の中に、実際に子どもを生贄に捧げるものが多々あったらしいことである。これを聞けば我々は眉を顰めるが、「人柱」などという酷いことが我々自身の前近代にいくらもあった。対するイサク捧げのポイントは、生贄を求めるところにではなくこれを廃するところにあったのだ。
もう一つは、「捧げ物の小羊は神御自身が備えてくださる」(創世記 22:8)との信念である。実際、それは備えられた。第一に、木の茂みに角をとられた雄羊として、第二に、十字架上の神の小羊として。
「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで人々は今日でも『主の山に備えあり(イエラエ)』と言っている。」(創世記 22:14)
見かけより重い、わが家のテントウムシ
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