散日拾遺

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鎌倉の林の中に黙想の家あり

2019-01-17 08:22:24 | 日記

2019年1月16日(水)

 13・14の連休に修士論文の審査を行い、15・16と鎌倉で一泊ミーティング。鎌倉はあの狭い土地に鶴岡八幡宮はじめ数多の寺社がひしめく中で、若宮大路に面してカトリック教会と鎌倉雪ノ下教会が軒を並べ、通るたびによくぞと感心する。バスで20分弱、十二所(じゅうにそう)で下車して100m戻ればイエズス会黙想の家の入口だが、そこから建物までハンパない急坂を曲がり曲り登らねばならない。折から小雨で足もとが滑っておお危ない、見ればその名も「殉教坂」、さすがと敬意を表しておく。

 各地の黙想の家はカトリックの美点を端的に集約したもので、質素と静謐をもって人を神と我に帰すべくひっそり佇んでいる。プロテスタントの一行が黙想ならぬ騒々しい談論協議のために逗留するのも申し訳ないが、口やかましく容喙しないのがまたカトリックらしい。各個室に戻った後は珍しくも皆一様に引きこもり、閑散とした広さの中で内なる dialogue に時を過ごしたようである。僕は黙想すらせず5分で沈没し、9時間眠り続けた。

翌日は晴天。殉教坂の勾配を樹々や電柱の角度から知られたい。

***

 さて、今昔物語のウサギの話である。巻5第13話「三獣行菩薩通兎焼身語(みっつのけだもの、ぼさつのみちをぎょうじ、ウサギみをやけること)」から。

 今ハ昔,天竺ニ兎・狐・猿、三ノ獸有テ共ニ誠ノ心ヲヲコシテ菩薩ノ道ヲ行ヒケリ。
 各思ハク、「我等前世ニ罪障深重ニシテ賤シキ獣ト生タリ。此レ前世ニ生有ル者ヲ不哀ズ、財物ヲ惜テ人ニ不与ズ。如此クノ罪深クシテ地獄ニ堕テ、苦ヲ久ク受テ残リノ報ニカク生タル也。然レバ此ノ度ビ、此ノ身ヲ捨テム」。
 年我ヨリ老タルヲバ祖(オヤ)ノ如クニ敬ヒ、年我ヨリ少シ進ミタルヲバ兄ノ如クニシ、年我ヨリ少シ劣リタルヲバ弟ノ如ク哀ビ、自ラノ事ヲバ捨テゝ他ノ事ヲ前(サキ)トス
 帝釈天此レヲ見給テ、「此等,獣ノ身也ト云ヘドモ,難有(アリガタ)キ心也。人ノ身ヲ受タリト云ヘドモ、或ハ生タル者ヲ殺シ、或ハ人ノ財ヲ奪ヒ,或ハ父母ヲ殺シ、或ハ兄弟ヲ讎敵(アタカタキ)ノ如ク思ヒ、或ハ咲(エミ)ノ内ニモ悪シキ思ヒ有リ。或ハ戀タル形ニモ嗔レル心深シ。何况(イカニイハムヤ)ヤ、如此クノ獣ハ實ノ心深ク難思シ。然レバ試ム

 「誠の心を起こして」に注目称揚し、オリジナルのジャータカには「求道発心」のことしかない、「誠の心」をここに置くのが日本版ならではの創意であり、「自らのことを捨ててまで他人を助ける」のも仏道の要請ではなく日本的な徳である云々と説いたものをネットで見かけた。某大学の紀要論文だが、これはやや(かなり?)怪しく思われる。岩波書店の「体系」の註に「誠の心」とは「心から仏道を求める心、真実の道心」の意とあり、そういったものだろうと思う。自らを捨て、他人はおろか空腹の虎まで助けるのが「捨身飼虎」の寓意であってみれば、それが仏道におさまらないというのも妙な話で、「日本的なもの」を見ようとする目にはそう見えるというありがちの読み込みではあるまいか。

 それよりひっかかるのは、「然れば試みむ」のほうである。そら来たぞ。

(続く)