2019年1月17日(木)
Y先生の愛兎さん再掲。
名前は「土筆」というのだそうである。若い人は読めるかしらん?まことに似つかわしくY先生らしい命名、男の子、なんですよね?
>「他の生き物と違ったこまやかなやりとりがある」と私も思います。もちろんうさぎの中でも品種や個体が異なれば性格も異なりますが、うさぎは犬ほどべたべたしませんし、かと言って猫ほど孤高な雰囲気やヒトとの距離感があるわけでもありません。
> あと、最大の違いはほとんど鳴かないことでしょうか。感情表現はけっこう豊かですが、鳴かない(声帯が未発達で鳴けない)ので、ほとんどが身体表現になります。また、被食動物ならではの神経の細やかさも、捕食動物である犬猫と大きく異なる点かと思います。
これは良いことを教わった。かくも発達した耳をもちながら、声をもたない・・・「傾聴」のシンボルに最適ではあるまいか。傾聴場面で鳴く代わりに「身体表現」を始めたら、これはまた問題だけれど。
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さて、今昔物語。神仏はなぜこうも「試す」のが好きかというのである。とはいえ、その尻馬に乗る狐や猿は我々自身で、それをこそ自覚せよということかもしれない。
何しろ、ここにいう「有り難し」は「尊い」とか「感謝すべきである」とかいった現代の語義と違って、「あり得ない」ということ、「あり得ないほど珍しい」「あり得ないので疑わしい」という意味である。天帝釈(帝釈天)は畜生の性根を信じていないので、化けの皮を剥がす魂胆で試しにかかり、「老いたる翁の無力にして術無げなる形」に身をやつして猿狐兎の前に現れる。しかし彼らの発心は本物と見え、それぞれ「老いたるをば祖の如くに」養おうと奔走するのである。
問題はそれからで、達者な猿は「木に登りて栗・柿・梨・棗・柑子・橘・・・等を取りて持ち来たり、里に出ては瓜・茄子・大豆・小豆・大角豆(ササゲ)・粟・稗・黍などを取りて持ち来りて、好みに随いて食せしむ。」狐も負けじと「人の祭り置きたるシトギ・カシキガテ・鮑・鰹、種々の魚類等を取りて持ち来たりて、思いに随いて食せしむるに、翁既に飽満しぬ。」こうした日々を過ごすにつれ、翁の天帝釈は「此の二つの獣は実に深き心ありけり、此れ既に菩薩なりけり」と宣う。どうも大した成果主義である。
ウサギはこの言葉を聞いていっそう発奮し、「灯を取り、香を取りて、耳は高くあげ背を低くかがめ、目は皿のように、尻の穴を大きく開いて(!)東西南北駆け回るけれども、一物も得ることができない。さあ、その後だ。
「然れば猿・狐と翁と、且つは恥しめ、且つは蔑り笑いて励ませども、力及ばずして・・・」
結果を出せないウサギに対し、猿狐のみならず翁までが嘲り蔑み笑うというのである。何とも浅ましい話で、些細な優越による差別化・同調圧力・嘲笑蔑視とくれば「いじめ」の構図そのものであろう。菩薩の所業どころか、ある種の地獄を見るようではないか。
ウサギばかりがどこまでも冷静だ。
「我れ翁を養はむが為に野山に行くと云へども、野山怖ろしくわりなし。人に殺され、獣に喰らはるべし。徒に、心にあらず身を失ふこと量りなし。ただ如かじ、我今この身を捨てて、この翁に食らはれて永くこの生を離れむ。」
死ぬのがイヤなのではない、翁の食い扶持を求めて山野を右往左往する間に、人や獣に食われて無駄死にするのが愚かしいというのである。どうせ食われるならこの翁に食われてやって、「永くこの生を離れむ(=未来永劫に畜生の境涯を離れよう)」という、透徹した霊的打算が働いている。
そうとは気づかぬ猿と狐、火を前にしてなお「汝、何物をか持て来らむ、此れ思ひつることなり(=思った通りだ)、虚言を以て人を(人じゃないだろ!)謀りて、木を拾はせ火を焚かせて、汝火を温まむとて、あな憎云々」と痛烈下劣に嘲り罵る。
筆者もここまで猿狐を貶めなくてもよさそうなものだが、『下町ロケット』なんぞの憎まれ役のルーツはかくも古いのだ。何しろ最後の大逆転は短慮の猿狐にこそ驚天動地であるけれど、ウサギにとってはかねての予定で迷いやブレは微塵もない。健気とか哀れとかではない、利他の美徳ですらない、ひたすら解脱を望む志操の堅固で冷徹なことよ、さもあれ、ジャータカではウサギは釈尊自身の前世の姿とされている。
「我、食物を求めて持ち来るに力無し。然ればただ我が身を焼きて食らい給ふべし」と云て、火の中の踊り入りて焼け死。その時に天帝釈、本の形に復して、このウサギの火に入りたる形を月の中に移して、普く一切の衆生に見令むが為に、月の中に籠め給ひつ。
お見事、猿狐のまずは驚きついで恐れ、やがて悔しがるまいことか、そんな奥の手があったとは。翁の天帝釈とともにウサギを罵ったは、誤った、謀られた・・・
土筆くん、信州の空に月のウサギが見えますか、君はどう思ひますか?
(続くかも)