2024年3月3日(日)
> 1887年3月3日、アメリカのアラバマ州タスガンビアに住む耳と目の不自由な少女ヘレン・ケラーのもとに、教師アン・マンスフィールド・サリバンがやってきた。ヘレンはあと3か月で7歳。一方、サリバン先生は20歳で、ボストンのパーキンス盲学校を卒業したばかりだった。
ヘレンは1歳9ヶ月の時に原因不明の高熱に襲われ、一命はとりとめたものの、光と音を失った。それでも両親に愛され活発で健康な少女に育ったヘレンは、6歳の時にボルチモアの眼科医チゾム博士に診察される機会を得た。
診察の結果、視力の回復は不可能とされたが、教育を受けることを勧められ、アレクサンダー・グラハム・ベル博士を紹介される。電話の発明で有名なベル博士である。ヘレンを連れてベル博士に会いに行った両親は、パーキンス盲学校の校長アナグノスを通じて、サリバン先生を紹介されたのである。
ヘレンは言葉を取り戻し、努力の末、25歳でハーバード大学のラドクリフ・カレッジを卒業、生涯を恵まれない人々のための活動に捧げた。サリバン先生は終生ヘレンと行動を共にし、彼女に人々の言葉を伝え続けた。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.68
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ヘレン・ケラー(左)とアン・サリヴァン(1888年7月)
アン・サリヴァンは9歳のとき母親が亡くなり、結核によって身体が不自由になった弟ジミーと共にチュークスバリー救貧院へ移り住んだ。弟はすぐに亡くなり、アン自身も目の病気の悪化によって視力を失う。この困難の中で抑鬱状態となり一切の食事を拒んだが、病院の看護婦に毎日キリスト教の教えを説かれるにつれ、徐々に心を開いていった。14歳でマサチューセッツ州ウォータータウンのパーキンス盲学校に入り、訓練と数度の手術の結果、視力を回復する。ただし光に弱く、常にサングラスをかけていた。
ヘレン・ケラーの教師として招かれたサリヴァンは、自分の経験を活かしてケラーに「しつけ」を施し、指文字によって言葉を教えた。サリヴァンの強引なしつけ方に父アーサーは憤慨し、サリヴァンの解雇を考えたという。しかしサリヴァンのおかげで、ケラーはあきらめかけていた「話す」能力を獲得することができた。サリヴァンはその後、約50年に渡り、よき教師よき友人としてケラーを支えていくことになる。
ヘレン・ケラーの生涯を綴る戯曲/映画は『奇跡の人』と訳されており、「奇跡の人」はヘレン自身のことであると日本で誤解されがちであるが、原題の "The Miracle Worker" は「奇跡を起こす人」すなわちアン・サリヴァンを指すものである。
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Johanna Mansfield Sullivan Macy
(1866年4月14日 - 1936年10月20日)
幼少時、ヘレン・ケラーは同じく盲目の塙保己一(はなわ・ほきいち)を手本と仰いで勉強したという。塙のことは母親から語り聞かされていたというが、母ケイト・アダムズ・ケラーがどのように塙保己一について知ったのか、手許ではわからない。
1937年4月26日、来日したヘレンは渋谷の温故学会を訪れ、保己一の座像や保己一の机に触れている。「先生の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なこと」「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」というヘレンの言葉が記録されている。
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Helen Adams Keller
(1880年6月27日 - 1968年6月1日)
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塙 保己一
延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日)
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