散日拾遺

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3月21日 メンデルスゾーンがバッハの「マタイ受難曲」の演奏会を開く(1829年)

2024-03-21 03:58:43 | 日記
2024年3月21日(木)

> 1829年3月20日、ドイツの 作曲家フェリックス・メンデルスゾーンは、自ら指揮して、バッハ作曲「マタイ受難曲」の演奏会を開いた。現在では信じられないことだが、この曲はバッハの時代から長きにわたって忘れられており、このメンデルスゾーンの演奏会によって復活したのだった。この日は、3月11日に続く二度目の演奏会であり、ちょうどバッハの誕生日にもあたっていた。場所はベルリンのジングアカデミーのホール、メンデルスゾーンはピアノで通奏低音を弾きつつ指揮をした。
 メンデルスゾーンと「マタイ受難曲」の出会いは、その6年前、メンデルスゾーン14歳の誕生日にまで遡る。プレゼントとして祖母から贈られたのが、受難曲の写筆スコアだった。恵まれた環境で育ち、なおかつ音楽の才能に秀でていたこの少年が、14歳で出会った「マタイ受難曲」にどれほどの思いを寄せたかは想像に難くない。
 当時、演奏会は新曲を演奏することが常識であり、古い音楽を演奏することは珍しかった。どんなに素晴らしい曲であっても、古い音楽を勉強するのは専門家だけだったのだ。常識を覆して「マタイ受難曲」を復活させたメンデルスゾーンは、34歳でライプツィヒ音楽院を開設し、後輩の育成にも貢献した。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.86

Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy
1809年2月3日 - 1847年11月4日


> 哲学者モーゼスを祖父、銀行家のアブラハムを父親に、作曲家ファニーを姉として生まれたメンデルスゾーンは、神童として幼少期から優れた音楽の才能を示した。作曲家としては『ヴァイオリン協奏曲』『夏の夜の夢』『フィンガルの洞窟』『無言歌集』など今日でも広く知られる数々の作品を生み出し、またバッハの音楽の復興、ライプツィヒ音楽院の設立によって19世紀の音楽界へ大きな影響を与えた。

 続けて「ユダヤ人の家系であったメンデルスゾーン家は謂れなき迫害を受けることが多く、それはキリスト教への改宗後もほとんど変わらなかった」とある。
 「改宗後も状況は変わらなかった、だから彼らの被った迫害や差別は宗教の問題ではない」とは言えない。逆にいわゆる宗教問題とはこうしたもので、改宗したところで何も解決しないことがしばしばある。何かがおかしいのだが、そのおかしさは「宗教」が「信仰」や「教理」から乖離してしまっているところにあると見える。
 メンデルスゾーン一族を悩ませた有象無象(うぞうむぞう)は、一見キリスト教徒としてユダヤ人を嫌っているように見えるが、実際にはキリスト教徒としての実質をほぼ完全に失っている。真のキリスト教徒なら初めからユダヤ人を迫害したりしないし、心得違いのキリスト教徒であれば相手が改宗した時点で迫害を止めるだろう。しかし実際に起きたことは、既にそんな水準から遠く隔たっている。よくも悪くも信仰はそこに存在しない。
 だからこのことをもって「これだから宗教はいただけないのだ」と評し、「無宗教」の日本社会を揚起するのは見当が外れている。日本では同じことが宗教の装い無しに起きる。大衆運動の原型を宗教運動に見たエリック・ホッファー(1902-83)は真に正しい。

 『フィンガルの洞窟』(原題 "Die Hebriden" 『ヘブリディーズ諸島』)
 北の海の風の息吹と波のうねりが、最初のフレーズからいきなり目の前に浮かび、洞窟の中へ引き込まれていくように感じる。視覚的なものを音楽で表現するといった、もってまわったレトリックではない、もっと直接的な今なら共感覚と呼ぶようなモードの超越が、無理なく外連味もなくそこにある。

 彼もまた短命の天才だった。必要な時間を過不足なく与えられた結果であろう。

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