散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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20240328 ー 記憶は身体なしに成立しえない/日本という方法

2024-03-28 07:47:38 | その日の新聞紙面から
2024年3月28日(木)

記憶は身体なしに成立しえない
三浦雅士
> 記憶は、脳というよりは口の記憶、耳や手の記憶としてある。詩歌はまずは一つの口調として記憶され、読むことのみならず思考も文体に同調することで起動すると、評論家は言う。そして文字を介したさらに抽象的な思考への展開さえも、聴覚から視覚への移行という、身体回路の変換に負うと。経典の暗記も身体訓練。とすれば、おそらく道徳も。『考える身体』から。
折々のことば 鷲田清一 3040

 囲碁の棋譜並べも、同じく身体で覚えるのである。「暗誦」という単純で強力な学習法を詰め込み教育と混同して廃し、主体的に考えることと弁えなくしゃべりちらすことを区別しない。そこへスマホとゲームで指先ばかりが「身体」となることが重なれば、記憶の内実は実に荒涼たるものになること請け合い。両手でゲームに没頭しながら座席の隙間に尻から突っ込んでくる「道徳」は、こうして成立する。

***

> 日本は東洋に属して、しかも海を隔てた列島です。四書五経も仏教も外から入ってきたもので、鉄・稲・漢字・馬も順番に立ち上がってきたのではない。そういうい国なので、編集的な多重性があるだろうと。だから日本をよく見ることによって、世界の文明や文化が見えるだろうという関心をもちました。
 しかし、そんな日本の文化や歴史にもかかわらず、西洋の学問の方法で語ろうとしてきたために…
 …日本という国そのものが「方法」であるということです。「日本は方法の国だ」という確信は初期からあって、だんだんそれを固めていった。最終的には「擬(もどき)」と言いました。なぞらえる。あやかる。歌舞伎や江戸遊芸では「やつし」と呼ばれるものです。本来のものを想定はするんだけれども、そこに少し逸脱をかける…
 …やつさないと、そらさないと。そのために方法がある。編集という方法と、日本という方法が重なっていったんです。
編集工学者 松岡正剛(13)

 すぐには理解できないが、うっすらとした感じのようなものはある。精神病理学に編集的な多重性を重ねたらどうなるか。「抑うつ気分」も「見捨てられ不安」も順番に立ち上がることなしに並列流入してきた。日本という方法から読み直し、やつしてそらして再構築するには、どこからどう手をつけたものだろう。「気」という言葉がヒントになるだろうか。そんな気がしないでもないが…

Ω

3月28日 バージニアウルフが入水自殺(1941年)

2024-03-28 03:54:43 | 日記
2024年3月28日(木)

> 1941年3月28日、イギリスの女流作家バージニア・ウルフが行方不明になった。家の暖炉の上には夫宛の書き置きが残され、付近を捜索したところウーズ川岸で彼女愛用の帽子と杖だけが発見された。若い時から時折精神が不安定になる傾向があり、入水自殺と思われた。
 バージニア・ウルフは1882年、文芸評論家・辞典編集者の父の下に生まれ、13歳で母親を失った。九年後には父親も死去し、兄弟、姉と共に暮らすことになる。兄のケンブリッジ大学時代の友人たちのサークル、ブルームズ・ベリー・グループに参加し、夫となるレナード・ウルフともそこで出会った。グループには経済学者のケインズ、数学のラッセルをはじめ錚々たるメンバーが揃い、当時の前衛芸術や文学に大きな影響を与えていた。
 バージニアは1915年、処女作『船出』でデビューした。代表作といわれる『ダロウェイ夫人』は、実験的手法を用いて意識の流れを描き、高い評価を得た。彼女はフェミニストしても名高い。
 ヴァージニア・ウルフの遺体は、失踪して約3週間後の4月18日になってようやく発見された。自殺の引き金になったのは、精神病に対する不安と第二次世界大戦のもたらす閉塞感だったと言われている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.93

Virginia Woolf
1882年1月25日 - 1941年3月28日


> ウルフはケンジントンの高級住宅街サウス・ケンジントンのハイドパークゲート22番地の家で、文学に造詣が深く、豊かな人脈を知己に持つ両親のもとで育った。両親はともに再婚で、一家には3つの婚姻による子供がいた。母のジュリアは最初の夫ハーバート・ダックワースとの間にジョージ、ステラ、ジェラルドの3人の子供がいた。父レズリーは、ウィリアム・サッカレーの娘、ハリエット・マリアン ("ミニー") サッカレー (1840 - 1875)と結婚して、娘のローラ・メイクピース・スティーヴンがあった。ローラは精神障害と診断されて家族とともに暮らしていたが、1879年施設に入った。レズリーとジュリアの間には、ヴァネッサ (1879)、トビー (1880)、ヴァージニア (1882)、エイドリアン (1883) の4人の子どもがいた。計8人の子供がいる再婚家族であった。

> 1885年、13歳の時に母が48歳で急死し、その2年後の異父姉ステラが死んだことによって、ウルフは神経衰弱を発病した。1904年に父が72歳で死去した。この時ウルフは深刻な虚脱状態に陥り、一時的に入院治療した。神経衰弱と繰り返す欝状態を、甥で伝記作家のクウェンティン・ベルら現代の学者はウルフとヴァネッサが異父兄ジョージとジェラルド・ダックワースから性的虐待を受けていたことに関連付けている。(ウルフはこのことについて自伝的エッセイ"A Sketch of the Past," "22 Hyde Park Gate"で回想している。)生涯を通して、ウルフは周期的な気分の変化や神経症状に悩まされた。この不安定さは彼女の社交生活には影響を与えたが、文筆活動は一生を通してほとんど中断することなく続けられた・・・

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