散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

3月16日 おまけではないツィオルコフスキー

2024-03-16 05:04:19 | 日記
2024年3月16日(土)

 「ロケットの父」ゴダードと対をなす「宇宙旅行の父」について記しておかなければ、片手落ちというものである。(「片手落ち」という言葉を教材で使おうものなら、待ってましたとばかり考査課からチェックが入るだろうが、ここはそういうナンセンスとは無縁の空間にて)



コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキー
(Константи́н Эдуа́рдович Циолко́вский / Konstantin Eduardovich Tsiolkovsky)
1857年9月17日(新暦では9月5日) - 1935年9月19日


 ロシア帝国イジェフスク生まれのロケット研究者、物理学者、数学者、SF作家。父がポーランド人であり本来の姓はポーランド語で「Ciołkowski(ツィオウコフスキ)」であるが、ロシアで生まれたことからロシア風に「ツィオルコフスキー」と発音することになった。
 1867年、10歳の時に猩紅熱に罹り聴力を失ったが、独学で数学や天文学を学んだ。1903年に発表した代表的な論文『反作用利用装置による宇宙探検(Исследование мировых пространств реактивными приборами)』の中で人工衛星や宇宙船を示唆し、多段式ロケット、軌道エレベータなどを考案してロケットで宇宙に行ける可能性を示した業績から「宇宙旅行の父」と呼ばれる。
 1897年には「ロケット噴射による、増速度の合計と噴射速度と質量比の関係を示す式」である「ツィオルコフスキーの公式」を発表し、今日におけるロケット工学の基礎を築いたが、生涯の大半はカルーガで孤独に暮らしていたため、存命中にツィオルコフスキーの業績が評価されることはなかった。
 晩年、「スプートニク計画」の主導者となったセルゲイ・コロリョフらによってようやく評価されるようになり、1957年10月4日にバイコヌール宇宙基地から打ち上げられた世界初の人工衛星である「スプートニク1号」は、ツィオルコフスキーの生誕100周年記念と国際地球観測年に合わせて打ち上げられたものである。工学者のみならずSF作家としても『月世界到着!』などの小説を著しており、随筆家としても『月の上で』や『地球と宇宙に関する幻想』などのエッセイを残している。
 「地球は人類のゆりかごである。しかし人類はゆりかごにいつまでも留まっていないだろう(Планета есть колыбель разума, но нельзя вечно жить в колыбели)」という名言で知られる。
 少年時代はモスクワの図書館に通い、好物の黒パンを食べながら勉強に励んだという逸話も残っている。

 以上は下記からの抜粋転記:

 「孤独に暮らしていたので、存命中にはほとんど評価されなかった」というあたり、不思議にゴダードと調子が合っている。孤独を愛した二人の父?
 しかし、そのツィオルコフスキーが1935年に赤の広場で行なった演説の録音を、上記サイトで聞くことができる。帝政ロシア時代は不遇だったがソ連時代になると評価され、1919年にはソビエト社会主義共和国連邦科学アカデミーの会員になったのだと。「存命中には評価されず」という記述と矛盾あり。孤独な生活も彼の嗜好の故ばかりではなかったようだ。
 演説で何を語っているのか、ゆっくりはっきり明瞭な発音。E 君ならさぞ楽しむことだろうが、できれば自分もこれを理解できる程度までロシア語に通じてみたい。
 間に合うかどうか。

Ω

3月16日 ゴダードが世界初の液体燃料ロケットを飛ばす(1926年)

2024-03-16 03:32:50 | 日記
2024年3月16日(土)

> 1926年3月16日、マサチューセッツ州オーバーンの農場において、ロバート・ゴダードは世界初の液体燃料ロケットを打ち上げた。飛行時間2.5秒、最高高度12メートルで、到達水平距離は56メートルだった。この時の燃料は液体酸素とガソリンで、平均時速は100キロであったという。
 1882年生まれのゴダードは、16歳の時にH・G・ウェルズの『宇宙戦争』を読んで、「宇宙飛行を可能にしたい」という夢を持った。彼が実際に液体燃料でロケットを飛ばしたのは45歳の時である。このロケットは「ネル」と命名され、推進部は先端部分にあり、液体酸素とガソリンのタンクは一番底にあるため、それぞれ導管で推進部に供給される仕組みだった。ネルは長さ約3メートル、重量は約4.8キロだった。
 液体燃料ロケットの理論は、ロシアのツイオルコフスキーによって既に発表されていたが、実際にロケットを飛ばしたのはゴダードが初めてである。
 その後ゴダードは、クラーク大学の教員としてロケットの研究を続け、自動誘導装置ジャイロの開発などを手がけた。彼は「近代ロケットの父」と呼ばれている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.81

Robert Hutchings Goddard
(1882年10月5日 – 1945年8月10日)


 その日のマサチューセッツは雪景色。どこまでが発射台でどこから本体か。
 「推進部は先端部分にあり、液体酸素とガソリンのタンクは一番底にあって、導管で推進部に供給される仕組み」という上述の解説からこの形状はとても描けないが、なるほどこういうことだったのか。
 「ロケットの父」は、しかし彼自身の非社交的な性格もあって、生前に業績が評価されることはなかったという。これには考えさせられる。明らかに彼自身、評価ということに関心が薄かったのだ。「宇宙旅行を可能にしたい」という夢が本物であるなら、志を同じくする人々との連携なり競争なりには想到しても良さそうなものだが、それにすら価値を置かず、ひたすら自分一個のこととしてロケットの設計図を描き続けたのである。そのゴダードが H. G. ウェルズから影響を受けた。ウェルズの方は人間への開けた関心を持ち続ける歴史家であり、そうした型の作家であった。
***
 調べて知ったのだが、ゴダードの初飛行の翌1927年、ヴァイマール共和国で「ドイツ宇宙旅行協会(Verein für Raumschiffahrt)」なるものが結成され、それ以降、液体燃料ロケットの研究を盛んに行なっている。
 ドイツでロケット熱が高まったのは、1923年にヘルマン・オーベルトの『惑星空間へのロケット Die Rakete zu den Planetenraumen』が出版されたのがきっかけだという。そのオーベルトは少年時代にジュール・ベルヌの作品を読んで宇宙に関心をもったのだそうで、これは『月世界旅行 De la Terre à la Lune/Autour de la lune』のことに違いない。そこでもかしこでも、出版物の影響力は大したものである。
 オーベルトはフォン・ブラウンらと共に液体燃料ロケットの設計・製作を進めたが、1929年の実験中に爆発して鼓膜が破れ、右目を失明する惨事となった。しかしその後もロケット開発への熱意を持ち続けている。
 ドイツ宇宙旅行協会の活動は平和的なものだったが、ヴァイマール共和国陸軍がロケットの長距離攻撃兵器としての可能性に注目し、フォン・ブラウンを陸軍兵器局に引き抜く。この人事がやがてナチ時代の報復兵器V2として結実し、戦後アメリカのロケット開発につながっていくという因縁話である。
 日本の降伏の4日前まで存命だった「父」ゴダードは、ドイツの息子たちの動静をどのように見ていただろうか。実はオーベルトは1922年にゴダードに手紙を書き、ロケット研究の論文を取り寄せている。ただし後年、自分の研究はゴダードのそれとは完全に独立のものであると主張した由。
 そのことの真偽はさておき、息子たちは確かに非社交的な「父」とは異なり、資金と活躍の場を与えてくれる「政治」という名の社交を大いに活用したのだった。

   

左:Hermann Oberth, (1894 - 1989)
右:Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun, (1912 - 1977)

Ω