2024年3月4日(月)
なだいなだ『いじめを考える』を往路に再読。
ソクラテスの問答法は「産婆法 μαιευτική」と呼ばれる。プラトンの『対話編 Θεαίτητος』の中に描かれたソクラテスが、自身の方法を有名な産婆であった母親の方法になぞらえたことに由来するという。なださんの筆法はさしずめ現代の産婆法で、気がつかないうちに大いに影響されてきたようである。
もっとも、いま若い人々の間で「なだいなだ」が誰か何か、わかる人がどれだけあるだろうか。価値あるもの/人が忘れ去られる速さに、また一つ落胆の口実を見出す。
末尾近くで、ゾラとセザンヌの友情について知った。たぶん前にも「はじめて」知って感動しているのである。
「セザンヌという画家は知っているだろう」
「ええ、リンゴの静物や、トランプをする人々の絵で有名な、フランスの画家ですね」
「ま、日本でもよく知られた画家だ。彼はエクス・アン・プロヴァンスという南仏の町で生まれ、その周りの風景もよく絵に描いた人だよ」
「ええ、その絵も複製ですけど、見たことがあります。サン・ヴィクトワール山の絵でしょう」
今の高校生は、絵の歴史をよく知っているので驚いた。
「そのセザンヌが中学に通っていた頃だ。クラスに転校生が入ってきた。父親がダム建設の技師で、仕事場に近い学校に移ってきたんだ。エミール・ゾラという名前だった。」
「えっ、あの小説家のゾラですか」
「知っているかね」
「名前だけは。ドレフュス事件で活躍した。作家と政治のテーマで彼についての話を聞きました。その彼がセザンヌの同級生だったんですか」
「中学のね。ところがゾラは、クラスの全員から<いじめ>にあったんだ。無視され、誰にも声かけてもらえなかった」
「なんだ、フランスでも同じようなことをやっているんですね」
「しかも、百年も前にね」
ぼくたちは笑った。笑うことじゃないのだが、笑いたくなったのだ。
「それで、セザンヌはどうしたんですか」
「もちろん、彼もクラスの中の一員だ、<いじめ>に加わっていた。しかし、気の毒になって、クラスの禁を破ってゾラに口を聞いたのだね。そして彼もまた、皆から<いじめ>にあうことになった」
「そうですか、そういうことがあったのですか」
「というわけで、この有名な画家と小説家は、一緒にいじめられて、それからずっと親友になったのだね。ま、人生の終わり頃、二人はつまらないことが原因で仲違いするんだけれど」
「そうだったんですか。すると<いじめ>と闘いながら、そこから友情が生まれたというわけですね」
「その話を聞くと、<いじめ>を人生の物語の中に取り込んで、一人ひとりは人間的な成長をしていることがわかるだろう」
「そうか、人生の物語の中に組み込むのか。<いじめ>というのはいいか悪いかを越えたところで、それが人生の中でどういう意味を持つか考えなければいけないのですね」
山田君はそう結論を出した。
なだ いなだ『いじめを考える』岩波ジュニア新書 P.188~190
***
建設技師の父親に連れられて転校してきたというゾラの身の上は、まるで『風の又三郎』のようである。しかしこの又三郎はあっという間にいなくなりはしなかった。
セザンヌの絵は好きである。同じ絵の具を使っていて、なぜあんなに美しいのかと思う。ゾラは恥ずかしながら読んだことがない。しかし尊敬すべき人物であることを知っている。
この二人の交流をテーマにした映画がつくられている。
『セザンヌと過ごした時間』(2017)https://bijutsutecho.com/magazine/insight/6583


Paul Cézanne,
(1839年1月19日 - 1906年10月23日)

Émile Zola
(1840年4月2日 - 1902年9月29日)
「人生の終わり頃、二人はつまらないことが原因で仲違いする」とあるところ、なださんはどんな解釈をしていたのだろうか。この件には謎があり、通常はゾラの小説に描かれた画家の悲惨な生涯が、自分をモデルにしたものと受けとったセザンヌが怒って絶交したことになっているが、それより後の交友を示す書簡が2014年に発見され、再考が求められているのだそうだ。女性をめぐる軋轢があったとも言われる。
上掲書に戻っていえば、道徳主義にもとづいて一律に罰する式の予防が無意味であることを説いたくだりが、部分的に『反省させると犯罪者になります』のそれとよく重なっている。分かっている人々は同じところを見ている。
***
クリニックにて:
「ともかくよく忘れるようになってしまって。先生の御本も読み直してみるたびに、あら、こんなこと書いてあったかしら、という具合で」
「そうすると、一冊の本を何度も楽しむことができるわけですね」
年をとってからでなくとも「こんなことが書いてあったっけ」はよく体験するところである。だから書籍は恐ろしい。
『宇治拾遺物語』や『徒然草』などその最たるもので、この分だと生涯楽しめてしまうこと間違いない。
『聖書』も、もちろん。
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