散日拾遺

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3月8日 山川菊栄らが日本初の国際婦人デーを開催(1923年)

2024-03-08 03:28:59 | 日記
2024年3月8日(金)

 後村上帝はむしろ嬉しそうに、そして哀しそうに、唇を結んで身を震わせた。
 「ああ、帝のために散ってよい命などはない」
今村翔吾『人よ、花よ』554

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  •  単身の高齢女性 4割貧困 都立大教授集計 男性より14ポイント高く
  •  武器もたぬ女性 いつも犠牲に 国連女性機関 前事務総長
朝日新聞朝刊1面見出し

> 1923年(大正12年)の3月8日、山川菊栄を中心とする社会主義者の婦人が、東京・神田のキリスト教青年会館で、日本で初めての国際婦人デーの集会を開いた。
 国際婦人デーは、1904年の3月8日にニューヨークの女性労働者が、参政権を求めてデモをしたのが発端で、1910年の第二インターナショナル・コペンハーゲン大会で正式に制定された。
 それから13年後のこの日、大量のビラ宣伝などの効果で青年会館の会場は大盛況であったが、集会は警官の制止で40分ほどで解散させられてしまう。
 山川菊栄は、1916年に社会主義者山川均と結婚、18年には平塚らいてうとの母性保護論争で論壇に一躍勇名をはせた。23年にはマルクス主義婦人論の古典であるベーベルの『婦人論』を初監訳して世に普及させるなど、日本の社会主義運動および婦人運動の優れた指導者であった。
 終戦後の1947年には、社会党の片山哲内閣のもと、初代の労働局夫人少年局長に就任。いわば女性のキャリア進出の先駆けとなった。なお、婦人参政権の獲得は、アメリカが1920年。日本ははるかに遅れ、フランス、イタリアなどと同じく終戦直後の1945年である。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.73


山川 菊榮
1890年〈明治23年〉11月3日 - 1980年〈昭和55年〉11月2日

 岩波文庫の表紙にも使われている写真で、良い姿である。なで肩の線がなだらかで、レンズを向けられているのに妙な力がどこにも入っていない。とりわけ顎の線のきれいな人である。見据えた目の力は写真越しにも明らかだが、ひき結んだ口元が緩む時にはさぞ楽しそうに笑ったのではないだろうか。この居ずまいからどんな声・言葉で婦人解放を説いたのか、聞いてみたいものだった。とりわけ今朝の新聞を見たとしたら…
 婦人解放一筋に生きてきた人が『覚書 幕末の水戸藩』で大佛次郎賞を受けたのは1974年、数え85歳の年である。幾重にも尊敬に値する。
 御夫君もまた凛々しいことだ。

山川 均
1880年(明治13年)12月20日 - 1958年(昭和33年)3月23日

『イヌとからすとうずらとペンと 山川菊栄・山川 均写真集』
山川菊栄記念会/労働者運動資料室 (編)、同時代社

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