散日拾遺

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二十四節気 啓蟄

2024-03-05 08:59:40 | 日記
2024年3月5日(火)


 啓蟄の「蟄」とは、虫などが土中に隠れていることを意味します。春の気配を感じて、土の中で冬籠りしていた虫たちが、穴を啓(ひら)いて地上に出てくる時候からその名がつけられたようです。
 まだ寒さを感じる時期ですが、陽光のやわらかさや、目に見えて長くなる日脚などに春を実感できます。
(『和の暦手帖』P.36‐37) 

 3月4日生まれの愚息の名に「啓」の字を用いたのは「啓示」という言葉に惹かれたからだったが、外向けには「啓蟄の啓」と説明している。「啓」は会意文字。口と、𢻻(ケイ)(戸を手で開くさま)とから成り、口で人のわからないことを教えひらく、転じて、申し上げる意を表すのだと。
 むしろ窓を開いて新鮮な外気をたっぷり吸いこむ連想がある。それにふさわしい季節である。

七十二候
 啓蟄初候 蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)新暦3月6日~10日
 啓蟄次候 桜始開 (さくらはじめてひらく) 新暦3月11日~15日
 啓蟄末候 菜虫化蝶(なむしちょうとなる)  新暦3月16日~20日

 菜虫化蝶は、ここではモンシロチョウのことらしい。こんなに早かったのか。この写真は違うが、アブラナ科の花と歩調を合わせて春を迎えるのだろう。


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3月5日 チャーチルが「鉄のカーテン」演説を行う(1946年)

2024-03-05 03:31:41 | 日記
2024年3月5日(火)

> 1946年3月5日、トルーマン大統領に招待されてアメリカ各地で公演していたウィンストン・チャーチルは、ミズーリ州フルトンでその後の国際政治のキーワードとなる「鉄のカーテン」演説を行った。終戦直後に行われたこの前英国首相の演説は、その後の社会主義と資本主義の対立による冷戦時代を見したものだった。
 チャーチルはイギリス貴族の生まれで、父ランドルフも著名な政治家だった。陸軍士官学校を卒業後、軍隊経験をへてジャーナリストとなり、ボーア戦争に記者として従軍している。このジャーナリストとしての経験が、チャーチルに世界の将来を見通す力を与えたのかもしれない。
 第二次世界大戦勃発の数年前に、いち早くナチス・ドイツの危険性を指摘し、対戦開始後ヨーロッパが戦場となった時には、それまで敵対していたソ連の参戦を促すため、ドイツ軍の暗号情報から得たソ連侵攻作戦の情報を流している。
 また、連合国側が勝つためには米国の参戦が必要だと考えていた彼は、日本の真珠湾攻撃の報を聞き、「これで勝てる」と確信したという。
 大戦時に世界を動かすキーマンとして働いたチャーチルだが、1945年の選挙で大敗し、野に下る。そして、トルーマンの招きを受け、欧米したのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.70

Sir Winston Leonard Spencer Churchill
(1874年11月30日 - 1965年1月24日)

 小学校6年頃だったか、来客としてわが家を訪れた誰かからチャーチルの伝記をプレゼントされ、面白く読んで以来この人物には少々詳しくなった。
 面白く読んだというのは、チャーチルの経歴やものの考え方が型破りであることに加え、筆の立つことが大きく作用している。作家としてのチャーチルが『第二次世界大戦回顧録』で1953年度のノーベル文学賞を受賞したことは案外知られていない。この伝記も少年少女向けではあったが、その前半はチャーチル自身の筆になる "My Early Life"(1930)、後半は上述の回顧録などからの引用が主体で、ほとんど自伝のようなものだった。イギリス作家らしい平明で明朗な語りに引き込まれ、大概の冒険小説よりもはるかに面白く読み入ったものである。中学に入ってからこれを題材に読書感想文を書き、ローカルな賞をもらった記憶がある。田舎の家にあるはずだから、是非また読み直してみよう。

 政治家としてのチャーチルについて言えば、戦争指導に遺憾なく発揮された不屈の闘将の横顔とともに、野心に引きずられない確かな現実性を備えていた点が、昨日のルーズベルトとは好対照である。チャーチルはナチス・ドイツの危険ばかりでなく、ソ連のそれをもよく認識していた。しかし、さしあたってドイツに対抗するためにはソ連の対独参戦を促す必要があると考え、ドイツ軍の暗号情報から得たソ連侵攻作戦の情報を流したのである。ルーズベルトの根拠のないソ連びいきとはまったく異次元の現実的判断で、これは図に当たった。
 一方、同じ時期にチャーチルは独ソ開戦の情報を松岡洋右にも流している。言うまでもなくそのことによって日本がドイツに与することを避けようとしたのであるが、なぜか松岡がこれを握りつぶしてしまったことは2月24日の項に記した。

 真珠湾攻撃の報を聞いてチャーチルが大喜びしたのは事実であり、アメリカと同じ船に乗ったからには必ず勝てるとの見込みは正しいものだったが、喜ぶのが早すぎたと痛感する瞬間が少なくとも二度はあっただろう。
 一度目は、1941年12月10日のマレー沖海戦で、イギリス東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが日本の航空隊に撃沈された時。
 チャーチルが「あの艦が」と絶句したというのは、同年8月にチャーチルとルーズベルトが会見し「大西洋憲章」を締結したのが、他ならぬプリンス・オブ・ウェールズの艦上だったからである。「私は、ベッドの中で身もだえした。アジアは日本の手に落ちた」と『回顧録』が記している。
 二度目は、1942年2月のシンガポール陥落。「英国軍にとって歴史上最悪の惨事、最大の降伏」と自身が評したこの大敗北に接し、一時は首相辞任まで考えたという。
 とはいえ「不屈の闘志」という言葉はこの人物のためにあるようなもので、大戦の帰趨はチャーチルの読み通りに決し、彼は宰相として祖国に勝利をもたらした。その功労者を終戦直後の選挙であっさり下野させたイギリスの選挙民こそ、真に驚きに値する。
 戦時の頼もしい指導者が、平和の日々の良宰相とは限らない。実際、チャーチル自身に好戦的な独裁者の危険な徴候を指摘し、「ヒトラーという毒を制するに最適の毒」と評する者もあった。イギリス人は感謝をもって、危険な英雄をお役御免にしたのである。この国民にしてこの指導者ありと知るべきか。
 ついでながらチャーチルは、母の旅の土産話を聞いて以来、日本と日本人に対して一定の親近感を抱いていたことが、彼自身の筆によって知られている。ナチス・ドイツとの宥和に断固反対する一方、日本についてはドイツと切り離したうえで融和共存する構想をもっていた。ヤルタでのスターリンとの対峙に至るまで、さまざまな点でルーズベルトと対照的である。

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