2015年4月13日(月)
思いきって今日は完全休養。
切り抜いたまま放ってあった新聞記事に、目が行ったりする。
***
冷戦時代の、とある東欧の小国の笑い話。国家指導者御一行が野外で視察中、雨でもないのに書記長が傘をさして歩いている。
第一書記 「同志よ、雨は降っていませんが?」
書記長 「同志よ、モスクワでは降っている。」
これを初めて聞いたときには、屈託なく笑うことができたはずだ。この種の現象が、基本的に「あちら側」のことだと思っていたからである。実は「こちら側」 でも似たような構造はあったのだが、「あちら側」に比べればずっと程度も軽く、相対的なものに過ぎない・・・と思っていたし、まずまず思うことができた。
しかし、壁とともに「あちら側」が崩壊し、宿題は「こちら側」に託された。そして、相対的なのはこちら側の支配・被支配の実情ではなく、「あちら側」と「こちら側」の違いの程度であったことに思い当たる。
下記の記事を拡大して読むと、ワシントンDCで降る雨のために東京で傘をさす我らが指導者の姿を、まざまざと見ることができる。
***
ただし、指導者たちを非難するのは今では非常に困難だし、そもそも見当外れなのだ。何度選挙をやっても、彼らに対する「支持」が確認されるばかりなんだからね。
それでもうひとつの記事。どこにでもある番組紹介のようだが、最後まで読めばオチが辛辣である。書き移しておく。
「(昭和の青春と平成の青春と、青春のありように少しも違いはないが、しかし昭和初期を描いた)ドラマと現在の違いを筆者なりに考えれば・・・」
この後ですね、
「いま私たちをのみ込みつつあるのは、(昭和初年と違って)軍隊ではない。戦争のできる国を目指し、多くの人の人生を破壊した原発の再稼働を計画する政権を、なお支持する「民意」だろう。」(ライター・山家誠一)
レントに読んだ聖句が呼応して、そら恐ろしいようだ。
「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタイ 27:25)