散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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3月28日 バージニアウルフが入水自殺(1941年)

2024-03-28 03:54:43 | 日記
2024年3月28日(木)

> 1941年3月28日、イギリスの女流作家バージニア・ウルフが行方不明になった。家の暖炉の上には夫宛の書き置きが残され、付近を捜索したところウーズ川岸で彼女愛用の帽子と杖だけが発見された。若い時から時折精神が不安定になる傾向があり、入水自殺と思われた。
 バージニア・ウルフは1882年、文芸評論家・辞典編集者の父の下に生まれ、13歳で母親を失った。九年後には父親も死去し、兄弟、姉と共に暮らすことになる。兄のケンブリッジ大学時代の友人たちのサークル、ブルームズ・ベリー・グループに参加し、夫となるレナード・ウルフともそこで出会った。グループには経済学者のケインズ、数学のラッセルをはじめ錚々たるメンバーが揃い、当時の前衛芸術や文学に大きな影響を与えていた。
 バージニアは1915年、処女作『船出』でデビューした。代表作といわれる『ダロウェイ夫人』は、実験的手法を用いて意識の流れを描き、高い評価を得た。彼女はフェミニストしても名高い。
 ヴァージニア・ウルフの遺体は、失踪して約3週間後の4月18日になってようやく発見された。自殺の引き金になったのは、精神病に対する不安と第二次世界大戦のもたらす閉塞感だったと言われている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.93

Virginia Woolf
1882年1月25日 - 1941年3月28日


> ウルフはケンジントンの高級住宅街サウス・ケンジントンのハイドパークゲート22番地の家で、文学に造詣が深く、豊かな人脈を知己に持つ両親のもとで育った。両親はともに再婚で、一家には3つの婚姻による子供がいた。母のジュリアは最初の夫ハーバート・ダックワースとの間にジョージ、ステラ、ジェラルドの3人の子供がいた。父レズリーは、ウィリアム・サッカレーの娘、ハリエット・マリアン ("ミニー") サッカレー (1840 - 1875)と結婚して、娘のローラ・メイクピース・スティーヴンがあった。ローラは精神障害と診断されて家族とともに暮らしていたが、1879年施設に入った。レズリーとジュリアの間には、ヴァネッサ (1879)、トビー (1880)、ヴァージニア (1882)、エイドリアン (1883) の4人の子どもがいた。計8人の子供がいる再婚家族であった。

> 1885年、13歳の時に母が48歳で急死し、その2年後の異父姉ステラが死んだことによって、ウルフは神経衰弱を発病した。1904年に父が72歳で死去した。この時ウルフは深刻な虚脱状態に陥り、一時的に入院治療した。神経衰弱と繰り返す欝状態を、甥で伝記作家のクウェンティン・ベルら現代の学者はウルフとヴァネッサが異父兄ジョージとジェラルド・ダックワースから性的虐待を受けていたことに関連付けている。(ウルフはこのことについて自伝的エッセイ"A Sketch of the Past," "22 Hyde Park Gate"で回想している。)生涯を通して、ウルフは周期的な気分の変化や神経症状に悩まされた。この不安定さは彼女の社交生活には影響を与えたが、文筆活動は一生を通してほとんど中断することなく続けられた・・・

Ω

20240327 ー 次期戦闘機 輸出解禁

2024-03-27 08:32:10 | その日の新聞紙面から
2024年3月27日(水)

次期戦闘機 輸出解禁 ー 政府決定 安保政策を転換

> 政府は26日の国家安全保障会議(NSC)で武器輸出を制限している防衛装備移転三原則の運用指針を改定し、英伊両国と国際共同開発中の次期戦闘機の第三国への輸出を解禁した。昨年12月に続く輸出規制の大幅緩和で、今回は「殺傷能力のある武器の最たるもの」(自民党議員)とされる戦闘機を対象とした。平和主義に基づき、武器輸出を厳しく制限してきた戦後日本の安全保障政策の大きな転換となる。(1面)

> そもそも私は輸出解禁に反対の立場だ。哲学の問題で、平和憲法の理念や精神からすれば、殺傷力のある兵器を外国に売ってはいけない…最終的には国民が選挙で意思表示するしかない。
航空評論家 青木謙知氏

 善し悪し以前に、端的に明らかな「矛盾」が存在する。これまでも存在してきたが、拮抗する矛盾のテンションが一段と高まった。綻びがいずれ大きく裂けることは避けがたい。選挙で意思表示?それが頼めるものならば。

Ω



3月27日 松尾芭蕉『奥の細道』の旅に出立(1689年)

2024-03-27 03:48:49 | 日記
2024年3月27日(水)

> 1689年(元禄二年)3月27日、松尾芭蕉は多くの人々に見送られながら深川を後にし、『奥の細道』の旅にたつ。弟子の曾良を従えての二人旅だったが、乞食の境涯になることも辞さない、覚悟の旅だった。深川の草庵もあっさり人手に渡し、旅の資金にしている。
 『奥の細道』の記述によると、この日、明け方の空はおぼろにかすみ、有明の月の光は淡く、はるか西方に富士山をかすかに見ることができた。「上野、谷中の花の梢」を見るにつけても、今度はいつ見ることができるだろうかと心細い思いが募ったという。作品上はそんな旅立ちだったが、実は、旧暦の3月27日は、今の暦では5月16日にあたる。作品の中では春たけなわの出発の印象があるが、実際は新緑の萌え出る季節の出立だったことになる。
 旅立ちの日に添えられた発句は「ゆく春や鳥啼き魚の目は涙」。奥州から北陸を経て岐阜の大垣に至る予定は150日に及んだ。最後に記された発句は「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」とあり、出発の句の「行く春や」と「行く秋ぞ」が見事に対応している。
 『奥の細道』は、現実の旅と文学的な虚構の織り交ぜられた稀有の作品となった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.92

松尾 芭蕉
寛永21年(正保元年) - 元禄7年10月12日
(1644年 - 1694年11月28日)


 昨年の7月10日(月)、東京は最高気温37℃の猛暑。夕方まで北千住で仕事をし、その後めずらしく銀座で約束があったのが午後7時である。地図上の直線距離は10kmあまり、2時間あれば俺の脚ならお釣りが来るさと、よせば良いのに歩き出したのが頭のいいことである。直線距離を歩けるはずもなく、排気ガスを吸いこみながらの消耗戦、残り10分で日本橋を渡ったあたりからは『走れメロス』状態で、伊東屋の看板が見えているのに近づかない。なぜだ?

で、

 この日唯一の収穫が、日光街道沿いに芭蕉の碑を見たことだった。これが証拠、「奥の細道、矢立初めの地」とて、「行く春や」の句がちゃんと紹介されている。



 『奥の細道』は確かに通読したのに、ホントに読んだのかと思うぐらい思い出せない。それでも確かに読んだと言えるのは、郡山あたりの懐かしい地名が途中に出てきたからで、そういうことだけは記憶に残るのである。よくせき歌心がないらしい。
 「月日は百代の過客にして云々」は李白の、「行く春や」は杜甫の詩句をそれぞれ踏まえていると、そういうトリビアは覚えているのだが…
 
Ω

3月26日 ナンシー梅木がアカデミー助演女優賞を獲得(1958年)

2024-03-26 03:34:01 | 日記
2024年3月26日(火)

> 1958年(昭和33年)3月26日、日本ではナンシー梅木の芸名で知られるミヨシ・ウメキが日本人として初めてアカデミー助演女優賞に輝いた。受賞作は1957年のハリウッド映画『サヨナラ』で、主演はマーロンブランドだった。実は、このアカデミー賞受賞は、日本人で初めてというだけではなく、英・米人以外の助演女優賞の受賞という意味でも初めての快挙だった。
 1929年、ナンシー梅木(本名梅木美代志)は九人兄弟姉妹の末子として小樽に生まれた。ピアノを習ったのがきっかけで音楽の道に入り、兄が進駐軍の通訳をしていた関係で、キャンプでジャズを歌うようになった。19歳で上京、1950年ゲイ・セプテットのボーカルを経て米軍横浜キャンプのクラブ専属歌手となり、1955年に渡米した。
 渡米してからの彼女は、チャンスに恵まれていた。人気テレビ番組に出演し、タレントスカウト番組で優勝する。実力を認めればチャンスを与えるのがアメリカである。こうして渡米して二年後に初出演したハリウッド映画で、見事にアカデミー賞の栄冠を手にしたのである。その後、ブロードウェイミュージカルや映画、人気テレビドラマなどに出演したが、1972年引退し、現在はロス郊外で暮らしているという。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.91


Miyoshi Umeki
1929年5月8日 - 2007年8月28日

 そこそこの映画好きを自認していながら、このことは知らなかった。実力を認めればチャンスを与えるのがアメリカ ~ 真にその通りで、なるほど格好の実例ではある。
 『365日物語』の初版発行は2005年12月。残念ながらその少し後で鬼籍に移っている。

 『サヨナラ』の原作はジェイムズ・ミッチェナーの同名の小説。ミッチェナーは、同じく映画化された『南太平洋』の原作者でもある。もともと大学で教えたり編集の仕事をしたりしていたが、第二次世界大戦中に海軍で南太平洋戦線を経験した。それが1947年の最初の作品『南太平洋物語』"Tales of the South Pacific" に結実したということらしい。
 『サヨナラ』は1954年に上梓されている。その着想をどこで得たか、戦後に日本で取材するようなことがあったのか。
 ミッチェナーの三度目の妻は日系人とのこと。戦争をはさんだ文化交流の諸相であり、女性たちの物語でもある。


James Albert Michener
1907年2月3日 - 1997年10月16日

Ω

3月25日 世界初のディーゼルエンジンが公開される(1901年)

2024-03-25 03:46:25 | 日記
2024年3月25日(月)

 毎年、春分が過ぎると月の形が気になり始める。今日が満月のはずなのに、ああ無念、東京は朝からすっぽり雨雲の中。

 ごらん、冬は去り、雨の季節は終った 
花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。
雅歌 2:11-12

 松山郊外のウグイスの声、足下一面のホトケノザ、雲の上なる月を思い描いて過ごすとしよう。

> 1901年3月25日、イギリスのマンチェスターで、世界初の二気筒ディーゼルエンジンが公開された。ディーゼルエンジンは、ドイツ人ルドルフ・ディーゼルの発明した圧縮発火型エンジンで、植物油で稼働することからオイル・エンジンとも呼ばれる。
 ディーゼルが初めてエンジンの特許を得たのは、1892年であった。当時の内燃機関は蒸気機関だったが、燃費が悪く大きな装置が必要なため、大企業では使われていたが、小規模な農民や職人といった人々が使うには適さなかった。そこでディーゼルは、たやすく生産可能な植物油を燃料として、効率よく働く経済性の高いエンジンを開発しようと考えたのだ。
 しかし、特許をとったもののディーゼルエンジンは構造が複雑で、すぐには実用化に至らなかった。四年後、ようやく安定稼働するようになり、工業用動力として使われ始める。鉄道や船舶も徐々に蒸気からディーゼルエンジンへと切り替わっていった。
 1913年9月26日、ルドルフ・ディーゼルはベルギーからイギリスに向かう汽船から突然姿を消した。その後遺体が港に流れ着き、船から落ちて亡くなったことが確認された。自殺、事故死の両方がささやかれたが、真相は未だに明らかでない。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.90

Rudolf Christian Karl Diesel
1858年3月18日 - 1913年9月29日

 ディーゼルエンジンとガソリンエンジンの違いがなかなか十分には理解できず、しかし「農民・漁民や職人の使いやすい、効率よく働く経済性の高いエンジン」という発想の優れたる所以に深く感じ入る。
 ペッテンコーファーといいディーゼルといい痛ましい最後を遂げたものだが、ディーゼルのそれは不吉に謎めいている。

> 1913年9月29日の夕刻、ディーゼルはロンドンでの会議に出席するため、アントウェルペンから郵便蒸気船ドレスデン号に乗船した。船上で夕食をとった後、翌朝6時15分に起こしてくれという言葉を残して、午後10時ごろ自室に戻った。しかし、翌朝には彼の部屋は無人で、ディーゼルの姿はどこにもなかった。その部屋を調べてみると、ベッドを使った形跡がなく寝巻も畳んであったが、腕時計はベッドの左に外して置かれていた。彼の帽子とオーバーはきちんと畳まれた状態で後甲板の手摺の下に置かれているのが発見された。
 10日後、オランダの船 Coertsen の乗組員が北海のノルウェーに近い洋上に浮かんでいる死体を発見。その死体は腐敗がひどく、人相もわからず、船に引き上げることもできなかった。その代わりに船員はピルケース、財布、IDカード、ポケットナイフ、眼鏡ケースなどを死体から回収している。同年10月13日、それらの品をルドルフの息子が父のものだと確認した。
 ディーゼルの死については様々な推理がなされている。伝記を書いた Grosser は自殺の可能性が高いとしている。商売敵や軍による殺害とする陰謀論もある。しかし、いずれも証拠に乏しく推測の域を出ない。
 ディーゼルの失踪直後、妻のマルタはディーゼルからその航海に出る直前に渡された鞄を開けてみた。ディーゼルはその鞄を渡すとき、翌週まで開けないように指示していたのである。中には20万マルクの現金と預金口座が空になっていることを示す書類が入っていた。

 さらに痛ましいのは「失踪後、ドイツでは長く墓も作られないような有様であった」と上記サイトにあることで、どんな事情があるにせよ、世界の農漁民や労働者にこれほどの貢献を為した人物へのふさわしい扱いとも思えない。それだけに下記の事実が喜ばしい。

> 日本で小型ディーゼルエンジンを開発した山岡孫吉(ヤンマー創業者)により、1957年、生誕100年、エンジン開発60年を記念して、アウグスブルクのヴィッテルスバッハ公園に石庭苑が寄贈された。
同上
 
 ヤンマーは気骨のある企業で、ルドルフ・ディーゼルの志を正しく継承・発展させている。ヤン坊とマー坊の天気予報は、昭和の子どもにとって懐かしい日々の背景だった。「僕の名前は」に始まるテーマソング、たぶん死ぬまで忘れはしないだろう。

Ω