投稿 鯨児
まず、今回の句会の季語について、俳句大歳時記から引いておく。
「季語の「残る虫」とは、晩秋に細々と間延びした鳴き方をする虫(主にこおろぎ)を言う。晩秋のあわれと生に対する懸命さがこめられている。」
秋も深まると、夏の間繁茂していた雑草も、勢いが失せ自壊していく。そしてその草葉の陰で、合唱していた虫たちも、輪唱さらには二重唱、独唱となっていく。大歳時記」に書かれているように、「残る虫」は、もののあわれ、生への懸命さを詠うのに、ふさわしい季語といえる。ただ、ふさわしいが故に、作句する場合、ステレオタイプになりがちである。この句の優れている点は、いくつかの点で、このステレオタイプ破りを行っていることにある。
まず一つ目は、有機から無機への転化である。つまり有機的な虫そして雑草群を、無機的な陶器そして骨董店に代えた点にある。有機から無機というと、もののあわれ、生への懸命さが減じるという見方もある。しかし、無機にも無機のあわれがある。
勝手な想像であるが、この白釉の壺、陶芸家によって生を享け、展覧会やお店に陳列され、お金持ちに買われ、花が生けられ、邸宅の床の間に鎮座という華やかな時代もあったかもしれない。そして代がわりして、無用となり、この骨董店に引き取られていったのかもしれない。
次に、この句の素晴らしい点は、聴覚の句になるものを視覚の句にかえたことである。つまり生への懸命さを告げる「残る虫」の音を、白釉という色彩、壺という形に転化している。数多く並べてある骨董店の品物の中で、その白さと形で、「残る虫」のように自らの存在を告げる白釉壺。目に浮かぶようである。
トウガラシ(唐辛子)