私は、孑孑(ボウフラ)を育てている。
庭のあちこちの鉢や皿に水を張って放置しておくと、蚊が卵を産む。一週間もすると元気なボウフラが、しの字しの字にうようよ活動しだす。虫が死んでいれば群がっている。肉食なのだ。
晴天が続き地面が乾けば、水の捨て時である。ボウフラがいるのを確認して、日向に水を捨てる。そして、再び水を足しておく。これが一番の蚊対策なのである。
先日、来客のアメリカ人が鉢を覗き、「ボーフラがいますよ」と話しかけてきた。2,3日前に水を替えたばかりなのに・・・・と私は感心して、蚊対策なのだ、と説明すると、ようやく彼は納得した。
実は彼は、私がずぼらで水を捨てない馬鹿な奴ではないか、と疑っていたのだ。
アメリカの彼の実家でも同じように蚊を退治していたそうだ。私達は、親近感を感じて頬笑みを交した。
さて、「一寸の虫にも五分の魂」と言うではないか。水を捨てる時、いささかの罪悪感がないわけではない
この句、下品と言えばその通りだが、現場に居合わせた作者の突然の馬の屁への驚きと爆笑が、眼に浮かぶではないか。
馬は人間のほぼ十倍の体重があるから、屁の音も臭いもそのスケールの大きさも想像しただけで可笑しい。
風下にいたのも、根に猛毒を持ち青紫の美しい鳥兜の取り合わせも、実体験がなければこういう句はそう簡単にできるものではない。私も特大の馬の屁を経験したくなってしまった。
今でも競馬の厩舎などで働く人達は、馬の屁を日常的に経験していることだろう。
作者の勝峯晋風は、大正・昭和初期に活躍し、昭和二十九年に六十六才で没している。俳誌「黄燈」を主宰し、芭蕉、一茶を始め、多くの俳諧研究に貢献している。
この句は、子育て中の20年前の句だが、鮮明に記憶している。
3才の我が子に「すぐ戻るから待ってて」と言い残し、車を離れて友人宅を訪ねた。届け物を渡しすぐ戻るつもりが、玄関での立ち話が長くなってしまった。たぶん10分ぐらいだったと思うが、戻って見ると、車の中で泣きじゃくっていた。離れる時には明るかったのだが、駐車場はすっかり暮れてしまっていたのだ。だから実際は、30分以上経っていたのかもしれない。
長篠の合戦で、陣中から妻宛てに書いた本多重次の「一筆啓上 火の用心 おせん泣かすな 馬肥やせ」とあるが、こちらのミスで子を泣かせば、親は深く後悔する。
夕方、陶房の隅で一匹の蟋蟀(コオロギ)が鳴き始めた。コオロギは、ツヅレサセコオロギで夜遅くまで鳴き続けていた。翌朝、目覚めると、もう鳴いていない。一晩中鳴いて鳴き疲れたのだろう。
室内に入り込んで鳴くのは風情があるが、コオロギの命を考えると、痛々しく感じられあわれである。生きているだろうか、メスを見つけただろうか、餌は、水はどうしたろうか。
「ツヅレサセ」は「綴刺せ」と書くそうで、この虫が鳴き出すと寒い季節が近づいてくるため、この声を聞いて昔の人が「そろそろ冬着の繕い物をしなくちゃ。」と思ったことから来た名前だとか。
(はなのきて/ えんまのめはな/ あかずみる)
今日は、朝5時に起きて、岩戸山から日金山東光寺まで、犬を連れて往復してきた。登山道にはススキ・オミナエシ・田村草、藤袴・松虫草・ツリガネニンジンが咲き乱れていた。
日金山東光寺の本尊は、銅製の地蔵菩薩が安置されている。本堂へ向かう参道には、石像の閻魔と奪衣婆が向かい合って座っている。閻魔も奪衣婆も恐ろしい形相の中に、ユーモラスさもあって、見飽きない。
まもなく秋の彼岸だが、熱海・湯河原・三島方面から沢山の参詣者が訪れる。死者の霊を慰めるためである。境内には、茶店や軽食の店も出て賑わう。