冷え込みが少し弛んだ遠野、お日様はちょっとしか顔を覗かせなかったけど、今までに比べれば遙かに過しやすい、しかし、まだまだ厳冬期であり、もうしばらくは「さむじぇ~」と声を出す日々が続くものと思います。
さて、時折コメントいただきます残さん(大槌町出身、会津若松在)から小友町の鮎貝館に関り、館主と語られる鮎貝氏に関して気仙沼市史に記述があるとご教授いただいておりましたが、本日市立図書館にて確認して参りました。
確かに遠野鮎貝館の鮎貝氏に関する記述と若干の考察を確認しております。
小友町鮎貝・鮎貝館跡・・・2008年1月29日撮影

まずは鮎貝館に関する伝承等はこちらをご確認ください。
遠野市小友町鮎貝地区

4年程前になりますか?遠野市内の館跡調べを始めて間もなく、小友鮎貝館探訪に前後して、この館の伝承も含んだ郷土資料を拝見しましたが、その中にかなり興味を覚える記述をみて驚いたものです。
内容は上記にリンクした頁をご参照願えればと思いますが、その後、この地区で生まれ育ち現在も暮らす職場の先輩に聞いたのですが、伊達家家臣の鮎貝氏縁の地、山形県白鷹町と鮎貝という地名が縁で交流が成ったということ、お互い往来が成ったとということを聴いております。
しかし、山形県白鷹町を中心に長井市も含まれる地を治めていた鮎貝氏が何故に遠野へ来たのか、伝承は史実に近いものがあるのか、この点が不明でもあり、興味はあっても心底から信じることはできなかったが本音でもありました。
また、館跡関連の資料には館主一族末裔は現在も宮城県気仙沼に健在であるかのような記述もあって、根拠は何なのか、きちんと調べたのか、こちらも俄かに信じられる要素は感じられませんでした。
八坂神社

○鮎貝氏
藤原北家流山蔭中納言の孫藤原安親は、置賜郡下長井荘の荘官となった。子孫は土着して武士化し、置賜郡横越郷に居住して横越氏を称した。
応永三年、成宗は横越から下長井荘鮎貝に移り鮎貝城を築き、鮎貝氏を称し、以後、宗盛-定宗と続いたという。また一家の家譜では鮎貝定宗が鮎貝に住んで鮎貝を称したともいう。
鮎貝氏は伊達晴宗(政宗の祖父)時代、「守護不入」(国主といえどもその領地統治に関して干渉しない)の特権を与えられ、伊達家からかなり優遇されていたことが伺われる。
天正15年(1587)、伊達政宗と対立する最上太守、最上義光の支援で伊達家に謀反を企てたが、伊達政宗によって鮎貝氏は攻められ鮎貝城は落城。
鮎貝氏当主宗信は最上家に逃れたが、伊達政宗は当主の弟宗定を粗略に扱わず、祖父の代より格式高き家である鮎貝氏を御一家(伊達氏親族等)に据えて優遇した。
ちなみに伊達家では・・・
御一門、御一家、準御一家、御一族、宿老の序列とされ、鮎貝氏は伊達家親族ではなかったが御一家の筆頭となる。
寛永21年(1644)仙台2代藩主伊達忠宗は鮎貝宗定に本吉郡内等800石余りを加増、この時に現気仙沼地域に関りを持った最初であると思われる。
後に仙台藩では重きを成し明治維新を迎えている。
しからば遠野市小友町鮎貝との関わりは・・・・となりますが・・・。
○遠野鮎貝館
遠野阿曾沼時代の末期、阿曾沼広郷(遠野孫次郎)広長(孫三郎)に仕えた鮎貝志摩守が館主であると伝承されている。
後に慶長5年(1600)に阿曾沼広長が鱒沢広勝、上野広吉の謀反によって気仙落ちした際に広長に附き従って共に気仙へ落ちていったと語られる。
気仙沼市史では、天正年間に最上氏支援で伊達政宗に反抗した際に伊達勢に攻められ、当主である兄が出奔、弟の宗定が取り立てられるも、家格は優遇されるも禄も少なく、また政宗時代は記録に残るような事績を残していないという・・・。
すなわち鮎貝氏事績不明な時代が文禄、慶長、寛永初期にあったのではないのかと考察され、この時期に小友鮎貝館に伝えられる内容が当てはまるのではないのかとも推測されることで、この考察にはかなり興味を覚えることでもあります。
つまり阿曾沼氏の要請によって伊達政宗がある程度名の通った大物武家を遠野に派遣した、ちょっと驚愕することでもあり、つじつまも合いそうな雰囲気でもあります。
無論、遠野側のこの時代の歴史考察含め裏を取るような内容は必要ではありますがね・・・・。
いずれにしましても、少し鮎貝館、遠野の鮎貝氏に関して一歩前進といったところで、ますます興味をそそられます。
五輪峠入口ゲート

雪で閉ざされ春まで通行は出来ませんが、いずれ春が訪れて通行可能になるように遠野郷土史のひとつ、鮎貝館の謎も雪融け間近となりますか?・・・。
さて、時折コメントいただきます残さん(大槌町出身、会津若松在)から小友町の鮎貝館に関り、館主と語られる鮎貝氏に関して気仙沼市史に記述があるとご教授いただいておりましたが、本日市立図書館にて確認して参りました。
確かに遠野鮎貝館の鮎貝氏に関する記述と若干の考察を確認しております。
小友町鮎貝・鮎貝館跡・・・2008年1月29日撮影

まずは鮎貝館に関する伝承等はこちらをご確認ください。
遠野市小友町鮎貝地区

4年程前になりますか?遠野市内の館跡調べを始めて間もなく、小友鮎貝館探訪に前後して、この館の伝承も含んだ郷土資料を拝見しましたが、その中にかなり興味を覚える記述をみて驚いたものです。
内容は上記にリンクした頁をご参照願えればと思いますが、その後、この地区で生まれ育ち現在も暮らす職場の先輩に聞いたのですが、伊達家家臣の鮎貝氏縁の地、山形県白鷹町と鮎貝という地名が縁で交流が成ったということ、お互い往来が成ったとということを聴いております。
しかし、山形県白鷹町を中心に長井市も含まれる地を治めていた鮎貝氏が何故に遠野へ来たのか、伝承は史実に近いものがあるのか、この点が不明でもあり、興味はあっても心底から信じることはできなかったが本音でもありました。
また、館跡関連の資料には館主一族末裔は現在も宮城県気仙沼に健在であるかのような記述もあって、根拠は何なのか、きちんと調べたのか、こちらも俄かに信じられる要素は感じられませんでした。
八坂神社

○鮎貝氏
藤原北家流山蔭中納言の孫藤原安親は、置賜郡下長井荘の荘官となった。子孫は土着して武士化し、置賜郡横越郷に居住して横越氏を称した。
応永三年、成宗は横越から下長井荘鮎貝に移り鮎貝城を築き、鮎貝氏を称し、以後、宗盛-定宗と続いたという。また一家の家譜では鮎貝定宗が鮎貝に住んで鮎貝を称したともいう。
鮎貝氏は伊達晴宗(政宗の祖父)時代、「守護不入」(国主といえどもその領地統治に関して干渉しない)の特権を与えられ、伊達家からかなり優遇されていたことが伺われる。
天正15年(1587)、伊達政宗と対立する最上太守、最上義光の支援で伊達家に謀反を企てたが、伊達政宗によって鮎貝氏は攻められ鮎貝城は落城。
鮎貝氏当主宗信は最上家に逃れたが、伊達政宗は当主の弟宗定を粗略に扱わず、祖父の代より格式高き家である鮎貝氏を御一家(伊達氏親族等)に据えて優遇した。
ちなみに伊達家では・・・
御一門、御一家、準御一家、御一族、宿老の序列とされ、鮎貝氏は伊達家親族ではなかったが御一家の筆頭となる。
寛永21年(1644)仙台2代藩主伊達忠宗は鮎貝宗定に本吉郡内等800石余りを加増、この時に現気仙沼地域に関りを持った最初であると思われる。
後に仙台藩では重きを成し明治維新を迎えている。
しからば遠野市小友町鮎貝との関わりは・・・・となりますが・・・。
○遠野鮎貝館
遠野阿曾沼時代の末期、阿曾沼広郷(遠野孫次郎)広長(孫三郎)に仕えた鮎貝志摩守が館主であると伝承されている。
後に慶長5年(1600)に阿曾沼広長が鱒沢広勝、上野広吉の謀反によって気仙落ちした際に広長に附き従って共に気仙へ落ちていったと語られる。
気仙沼市史では、天正年間に最上氏支援で伊達政宗に反抗した際に伊達勢に攻められ、当主である兄が出奔、弟の宗定が取り立てられるも、家格は優遇されるも禄も少なく、また政宗時代は記録に残るような事績を残していないという・・・。
すなわち鮎貝氏事績不明な時代が文禄、慶長、寛永初期にあったのではないのかと考察され、この時期に小友鮎貝館に伝えられる内容が当てはまるのではないのかとも推測されることで、この考察にはかなり興味を覚えることでもあります。
つまり阿曾沼氏の要請によって伊達政宗がある程度名の通った大物武家を遠野に派遣した、ちょっと驚愕することでもあり、つじつまも合いそうな雰囲気でもあります。
無論、遠野側のこの時代の歴史考察含め裏を取るような内容は必要ではありますがね・・・・。
いずれにしましても、少し鮎貝館、遠野の鮎貝氏に関して一歩前進といったところで、ますます興味をそそられます。
五輪峠入口ゲート

雪で閉ざされ春まで通行は出来ませんが、いずれ春が訪れて通行可能になるように遠野郷土史のひとつ、鮎貝館の謎も雪融け間近となりますか?・・・。
