「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

赤沢白山神社

2008-04-05 18:48:54 | 歴史・民俗
 先月末に紫波町内で開催された郷土史セミナー(どっこ舎)に参加いたしましたが、その中で「陸奥話記」関連と紫波町赤沢の白山神社別当家「遠山家文書」についての講演があり、どちらも安倍一族、奥州藤原氏に繋がる内容でもあり、たいへん興味深く拝聴いたしました。

 平泉を世界遺産へ・・・この大きな運動の波紋は平泉文化に深く影響された地域やら縁の土地へも広がりをみせ、紫波町もそのひとつの地域でもあり、平泉の世界遺産登録に向けての援護射撃は無論のこと、平泉とどのような関連があったのか、地域でその歴史の再発見やら認識、史跡の保存等が活発化しているといった印象も感じることができました。

 我遠野でも世界遺産といった言葉から来ているものと思いますが、「遠野遺産」なる認定制度も昨年より始まり、平泉の世界遺産登録という大きな動きに触発された思いもございますが、地元史に携わるものとしては、喜ばしいことでもあります。
 




 さて、紫波町に用向きがあって、そのついでといいますか帰る際に紫波町赤沢地区に立ち寄って参りました。





 セミナーでの白山別当遠山家文書や白山神社での伝承等を早期にエントリーしたいと思ってましたが、私自身、まずは現地を訪ねてから画像と共にお伝えしたいという思いもありましたので、少しご紹介が遅れてしまいました。


○遠山家文書
 代々紫波町赤沢の遠山家に受け継がれてきた文書で、残念ながら火災で焼失とのこと。
 現当主の先代が思い起こして木札に再縁したもので、全文が漢文で書かれ解読不能の文字もあるとか。
 その記録を近年、識者が解読し活字として成したとのことである。
 前九年合戦から明治時代に至る白山神社のことが記されている。

 今回のセミナーで口語訳され読みやすく整理されたものをいただきましたが、その内容については、ここでは省略いたします。


 遠山氏とは・・・(本姓・藤原或いは亘理)

 前九年合戦で安倍氏と共に源氏軍と戦った亘理権太夫藤原経清の一族、遠山師重は、経清に託され藤原家の宝物等一切を取りまとめ、経清の母親を引き連れ白山神霊負奉り紫波の赤沢に逃れてきたという。
 白山神社の付属寺蓮華寺の住職は師重の伯父、木覚良円法師良信であったと伝えられる。
 以来三十数代続く別当家とのことで歴代は神官?、修験。 

前九年合戦はご承知のとおり出羽の清原一族が源氏方となり参戦、安倍一族は厨川柵で最後を迎えております。

 安倍貞任をはじめ主な面々は戦死、或いは処刑され、藤原経清も処刑される。
 経清の子、清衡は清原一族の子として育てられますが、後の後三年合戦で勝利し、清原氏は滅亡、奥州藤原時代の到来となります。


 遠山氏現当主のご子息(故人)の調査研究の一部ではありますが、今回のセミナーでの資料には、清衡は紫波の赤沢で出生したのではないのか、そして後に平泉に中尊寺建立、さらに白山神社は赤沢から遷されたものなのか、或いは分霊を奉ったものなのか、清衡が平泉に移った際に何かしら関わりがあるのではないのか?そんな考察などもご披露いただきました。

 白山神社境内には藤原経清の母のものとされる墓碑が現存している。


 仔細等は私にはわからない、今後の調査研究等に期待するところでもありますが、私も折をみて少しずつ研究ができたらと思うところでもあります。

 いずれ、紫波という土地もまた少し触れてみると結構面白いところであると思えてならない。
 遠野阿曾沼氏関連ながらも遠野の南側では気仙、江刺といった地域の歴史、葛西氏絡みが外すことはできませんが、北では大迫氏やそして斯波氏といった武家時代も気になるところ、こちらも遠野との関係を主としながらも、今後の課題として取り組んで行きたいと思っております。










 100メートル余りの周りを畑に囲まれた緩やかな登りの参道を来ましたが、何か様子が違う、下調べには標高250メートル前後の山頂と書かれていたが、ここは山頂ではない。
 社殿?の裏には墓碑のような石碑もあり、これが藤原経清の母のものか?なんて考えてもみましたが、どうやらさらに山道を登って行かなくてはならないと気が付く。

 ここ数日に腰痛となり、本日は痛みも和らいで回復傾向であったので、此処まで来たが、これ以上は無理と判断して、少し残念ではありましたが撤退といたしました。
コメント (12)
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