2003年晩秋、霙が降りしきる中、東京都在の稲用さん、そして青森県在の藤九郎さんの3人揃っての初の城館探訪で私が遠野をご案内したのですが、お2人は私より一回り年少ながらも、北奥羽関連の城館跡探訪やら歴史探求は私より先輩であり、この分野では私の師匠格といっても過言ではありません。
また、インターネットで繋がっていたとはいえ、この分野でのかけがえのない友を得た思いでもあります。
そんな彼らと訪ねた小友町の新谷館跡、結局、核心となる館跡そのものを確認できないまま、というより発見することができずに次の探訪地へ移動という不本意な結果となっていて、その後も探訪時期になると第1の探訪候補とするも、どうしても別な館跡探訪となって、後回しにしてきた経緯がありました。
その新谷館、本日についに意を決して探訪して参りました。
国道脇の長野川を越えて直ぐの林道・・・・前回は堀跡を林道に利用といった結論となったと記憶しているが、後々に見た資料によれば、館下に普段の住居としていた屋敷があったと記述され、その屋敷を一応に防備するための遺構か?山城である本来の新谷館とはあまり関連はなさそうな雰囲気でもある。
この林道を100メートルほど進んでいくと沢が流れ、沢を挟んで左右に急斜な山野がある。
この何れかの山野が新谷館であることは、誰でも予想はつくが、私は向って右側の山が怪しいと睨み、早速斜面登りを開始する。
しかし、中腹辺りに至っても館跡特有の段差が全くみられない、おかしいと思いながらも遂に山頂まで来てしまった。
全身汗だく、山頂も今まで観てきた雰囲気とは違って、どうやら空振と気付くと一気に疲れが下半身を襲う・・・・。
このまま下っても良いが、今度は同じ高さの隣の山野を登らなくてはならないと思うと、これまた気が滅入ってしまい、山中を彷徨うように山頂を奥へ奥へと歩き始める。
なんでこんな行動に出たかといえば、少しでも高さを稼いで、頃合を見計らって隣の山野へ移動を目論んでのこと。
これはズバリ的中、少し下ったところに沢があって、その上に縦堀とおぼしき溝を発見、土塁のような形跡も斜面に確認できる。
一気に登って見ると、そこには紛れもない空掘が横たわっておりました。
まずまずの残存度、山頂背後では2重の堀で山野を断ち切っている。
正に山城見学の醍醐味といったところですが、全体的には小ぶりな館であり、思ったほど見所満載の館跡といった雰囲気ではなかった。
それでも、苦労してやってきた思いは報われたこと、5年越しの思いもこれで幾らか吹っ飛んだ思いがいたしました。
○新谷館
遠野市小友町長野地内
標高510メートル・比高110メートル・阿曾沼時代
館主・菊池平十郎景光(新谷禅門)・新谷庄作・・・新谷一族
新谷一族とは、本姓を菊池と称し、新谷を名乗る前は平清水氏。
慶長5年の遠野の政変では、新谷禅門の嫡子、平清水景頼(駿河)が鱒沢氏、上野氏の南部方となってクーデターを成功させた功で、一躍遠野盟主に躍進したが、父、禅門、他の兄弟達は平清水駿河に呼応せず、新谷館に篭って別路線を通したと言う・・・・。
後に平清水家は南部利直によって断絶となり、新谷氏の兄弟達は南部家に登用、或いは八戸から遠野へ入部した八戸氏の家臣となり新谷番所の勤番等を歴任して明治維新を迎えた。
新谷屋敷跡か・・・?(新谷館下方)
本姓を菊池とする平清水氏、新谷氏に通じる流れとして、菊池右近恒邦の名が第一に語られる。
右近は葛西家臣、岩谷堂(江刺)の江刺氏の重臣だったと伝えられ、玉里地区に勢力を持つ菊池一族であった。
江刺氏臣の菊池一族は多く散見される。
天正年間、菊池右近は主家である江刺恒重に南下著しい南部信直との同盟を画策したため江刺氏から追討される。
遠野の阿曾沼広郷がこの混乱に乗じて江刺に出陣するも敗走、菊池右近は遠野へ亡命し小友の一部を阿曾沼氏より預かることになった。
新谷(荒谷)菊池系図には菊池右近を遠野での初代とし、その子に菊池又市郎(板沢氏)、菊池平十郎(平清水氏・新谷氏)が記されている。
菊池氏が江刺から遠野へ流入、小友に当初入ったかのような印象を受けるも・・・・阿曾沼時代後半から慶長年間までの遠野郷の菊池氏を見ますと・・・。
○小友町
菊池平十郎(平清水景光)・新谷出雲(帯刀)⇒平清水館・新谷館
平清水平右衛門(平清水景頼)・平清水館
小友喜左衛門(奥友)・奥友館
○宮守町
宮森主水(宮杜)⇒宮守館
○上郷町
菊池又市郎(板沢)・板沢平蔵⇒板沢館
平倉長門盛清・平倉兵庫⇒平倉館
平倉新兵衛・平倉新八⇒刃金館・・・後に菊池新四郎
平原備後吉武・平原吉成⇒平野原館
切掛蔵人⇒大寺館
内城治兵衛⇒内城館
○青笹町
菊池兵庫介成景⇒臼館
宮沢左近⇒花館
○松崎町
駒木豊前広道・駒木隼人広三・駒木六兵衛⇒八幡館
畑中吉晴・畑中吉治⇒畑中館
菊池一族はある時期、すなわち天正、文禄に至る年代、すなわち江刺氏の内訌も含めて豊臣秀吉による奥州仕置で葛西家が没落したことによる要因で遠野へ入って来たことは、おそらく史実であり、まずはこの時代からの考察やら検証が必要と考えております。
無論、私自身の菊池姓に関する思いは南北朝時代に始まるという考えは強いものでありますし、巷の菊池氏研究では菊池がククチからとか、藤原なんとかからとか、そんな事は一切興味はない、いずれ遠野での菊池姓のルーツは何なのか、何故に此処まで広がったのか、このことのみであります。
まだまだこの分野では核心に迫るといったことはできてませんが、菊池一族縁の館跡探訪も含めまして今後も展開していく所存です。
新谷館跡のある山野
おまけ
小友方面の館跡めぐりやら史跡探訪での昼食は、此処・・・笑
天婦羅そばセット・・・ワンコインです。
また、インターネットで繋がっていたとはいえ、この分野でのかけがえのない友を得た思いでもあります。
そんな彼らと訪ねた小友町の新谷館跡、結局、核心となる館跡そのものを確認できないまま、というより発見することができずに次の探訪地へ移動という不本意な結果となっていて、その後も探訪時期になると第1の探訪候補とするも、どうしても別な館跡探訪となって、後回しにしてきた経緯がありました。
その新谷館、本日についに意を決して探訪して参りました。
国道脇の長野川を越えて直ぐの林道・・・・前回は堀跡を林道に利用といった結論となったと記憶しているが、後々に見た資料によれば、館下に普段の住居としていた屋敷があったと記述され、その屋敷を一応に防備するための遺構か?山城である本来の新谷館とはあまり関連はなさそうな雰囲気でもある。
この林道を100メートルほど進んでいくと沢が流れ、沢を挟んで左右に急斜な山野がある。
この何れかの山野が新谷館であることは、誰でも予想はつくが、私は向って右側の山が怪しいと睨み、早速斜面登りを開始する。
しかし、中腹辺りに至っても館跡特有の段差が全くみられない、おかしいと思いながらも遂に山頂まで来てしまった。
全身汗だく、山頂も今まで観てきた雰囲気とは違って、どうやら空振と気付くと一気に疲れが下半身を襲う・・・・。
このまま下っても良いが、今度は同じ高さの隣の山野を登らなくてはならないと思うと、これまた気が滅入ってしまい、山中を彷徨うように山頂を奥へ奥へと歩き始める。
なんでこんな行動に出たかといえば、少しでも高さを稼いで、頃合を見計らって隣の山野へ移動を目論んでのこと。
これはズバリ的中、少し下ったところに沢があって、その上に縦堀とおぼしき溝を発見、土塁のような形跡も斜面に確認できる。
一気に登って見ると、そこには紛れもない空掘が横たわっておりました。
まずまずの残存度、山頂背後では2重の堀で山野を断ち切っている。
正に山城見学の醍醐味といったところですが、全体的には小ぶりな館であり、思ったほど見所満載の館跡といった雰囲気ではなかった。
それでも、苦労してやってきた思いは報われたこと、5年越しの思いもこれで幾らか吹っ飛んだ思いがいたしました。
○新谷館
遠野市小友町長野地内
標高510メートル・比高110メートル・阿曾沼時代
館主・菊池平十郎景光(新谷禅門)・新谷庄作・・・新谷一族
新谷一族とは、本姓を菊池と称し、新谷を名乗る前は平清水氏。
慶長5年の遠野の政変では、新谷禅門の嫡子、平清水景頼(駿河)が鱒沢氏、上野氏の南部方となってクーデターを成功させた功で、一躍遠野盟主に躍進したが、父、禅門、他の兄弟達は平清水駿河に呼応せず、新谷館に篭って別路線を通したと言う・・・・。
後に平清水家は南部利直によって断絶となり、新谷氏の兄弟達は南部家に登用、或いは八戸から遠野へ入部した八戸氏の家臣となり新谷番所の勤番等を歴任して明治維新を迎えた。
新谷屋敷跡か・・・?(新谷館下方)
本姓を菊池とする平清水氏、新谷氏に通じる流れとして、菊池右近恒邦の名が第一に語られる。
右近は葛西家臣、岩谷堂(江刺)の江刺氏の重臣だったと伝えられ、玉里地区に勢力を持つ菊池一族であった。
江刺氏臣の菊池一族は多く散見される。
天正年間、菊池右近は主家である江刺恒重に南下著しい南部信直との同盟を画策したため江刺氏から追討される。
遠野の阿曾沼広郷がこの混乱に乗じて江刺に出陣するも敗走、菊池右近は遠野へ亡命し小友の一部を阿曾沼氏より預かることになった。
新谷(荒谷)菊池系図には菊池右近を遠野での初代とし、その子に菊池又市郎(板沢氏)、菊池平十郎(平清水氏・新谷氏)が記されている。
菊池氏が江刺から遠野へ流入、小友に当初入ったかのような印象を受けるも・・・・阿曾沼時代後半から慶長年間までの遠野郷の菊池氏を見ますと・・・。
○小友町
菊池平十郎(平清水景光)・新谷出雲(帯刀)⇒平清水館・新谷館
平清水平右衛門(平清水景頼)・平清水館
小友喜左衛門(奥友)・奥友館
○宮守町
宮森主水(宮杜)⇒宮守館
○上郷町
菊池又市郎(板沢)・板沢平蔵⇒板沢館
平倉長門盛清・平倉兵庫⇒平倉館
平倉新兵衛・平倉新八⇒刃金館・・・後に菊池新四郎
平原備後吉武・平原吉成⇒平野原館
切掛蔵人⇒大寺館
内城治兵衛⇒内城館
○青笹町
菊池兵庫介成景⇒臼館
宮沢左近⇒花館
○松崎町
駒木豊前広道・駒木隼人広三・駒木六兵衛⇒八幡館
畑中吉晴・畑中吉治⇒畑中館
菊池一族はある時期、すなわち天正、文禄に至る年代、すなわち江刺氏の内訌も含めて豊臣秀吉による奥州仕置で葛西家が没落したことによる要因で遠野へ入って来たことは、おそらく史実であり、まずはこの時代からの考察やら検証が必要と考えております。
無論、私自身の菊池姓に関する思いは南北朝時代に始まるという考えは強いものでありますし、巷の菊池氏研究では菊池がククチからとか、藤原なんとかからとか、そんな事は一切興味はない、いずれ遠野での菊池姓のルーツは何なのか、何故に此処まで広がったのか、このことのみであります。
まだまだこの分野では核心に迫るといったことはできてませんが、菊池一族縁の館跡探訪も含めまして今後も展開していく所存です。
新谷館跡のある山野
おまけ
小友方面の館跡めぐりやら史跡探訪での昼食は、此処・・・笑
天婦羅そばセット・・・ワンコインです。