「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

遠野陣場

2012-04-20 19:28:43 | 歴史・民俗

  天正の頃(天正年間1573-1592)、時の遠野領主は阿曽沼広郷(あそぬまひろさと)と伝えられ「阿曽沼家乗」に「葛西の族江刺重恒(えさししげつね)、政を失して境内擾乱(じょうらん)す。広郷、弊に乗じて岩谷堂城を攻む。克(か)たずして還る」

  

玉里、米里方面・・・遠くの山々の向こうは遠野

 

 言い伝えによれば、当時の江刺岩谷堂城主は江刺重恒とされ、重恒は放蕩無頼で民心を失い、江刺郡内の配下の多くが離反し、その離反者の中のある者が阿曽沼広郷に合力を求めてきたとされる。

 遠野郷領主であった阿曽沼広郷は武勇の誉れ高く、遠野郷内の半独立的な小領主達を屈服させ、遠野に本格的な専制君主時代を到来させた領主と伝えられており、この機に葛西領侵略の好機と捉えて要請に応じて、五輪峠を越えて遠野勢を率いて葛西領江刺郡内に侵入し、岩谷堂城の攻撃にあたった。

 ところが、政を失し配下の多くも離反したはずの江刺重恒の軍勢は、遠野勢や郡内で遠野勢に加勢した土豪の手勢の攻撃を良く防ぎ、逆に攻勢に転じてかえってこれを破る勢いで、遠征の遠野勢は孤立無援の苦境となり、ついに撤退するに至ったのである。

 この時に遠野勢が陣を敷いた場所が今に伝えられる「遠野陣場」と称されている。

 地元では遠野陣場(とおのじんば)・・・「とのずば」と呼ばれる場所があるとのことですが、当ブログでも過去に江刺探訪編で遠野陣場跡を簡略的ですが紹介した経緯があり、その過去エントリーに最近、地元の方だと思われますが、遠野陣場跡に関するコメントがあって、今回、再訪したというところです。

 前回含み、今回も具体的な場所については判らなかったが結果となりますが、雰囲気は掴んだ?的で良しとしたいと思います。

 

北東側から

 

情報によると舘下ニュータウン近くで江刺工業団地入口近く、またかつては寺があったとされる場所近く・・・とのこと・・・。

 

 

岩谷堂城跡近辺の地図を確認しながら、主に北側の五道ヶ辻~南側に少し下っての墓地近くの十字路方面を主に探索しました。

 

東側から

 

十字路近く・・・五道ヶ辻側から岩谷堂城跡方面

 

上の写真の逆側・・・城跡側から五道ヶ辻方面

十字路を左折すると住宅地に至り、その手前の山野は墓地となっている。

 

工業団地入口方面(南端)

 

当時との地形の差異は不明であるが工業団地造成等で地形がだいぶ変わったのだろうと推察されるも、五道ヶ辻とされる地名辺りが陣地を設営できる雰囲気の地形が確認できる。

無論、現代感覚の事ではありますが・・・

 

岩谷堂城跡方面手前の山野

携帯電話電波塔や墓地の北側、道を挟んでの某社方面

 

墓所の裏側(北側)

 

道を挟んでの・・・

 

遠野陣場といっても本陣のみを示しているのでは・・・

遠野の軍勢は各部隊毎に陣地を展開していたものと想像され、ある程度、広範囲にわたっていたものと推測される。

岩谷堂城の北端まで約100~200メートルというところです。

 

 

通りがかりの軽トラックの小父さんに思い切って聴いてはみましたが、知らないという答え・・・近くの民家で聴く勇気は私にはなく、情報をいただきながらも今回もダメでした・・・。

情報をいただける方、具体的な場所、目印とか具体的にお願いしたいと思います。

よろしくお願いします。

 

 

江刺区玉里・・・青篠城跡(あおざさじょう)

 

 

 遠野勢による江刺岩谷堂城攻、江刺氏の執権職、家老は菊池氏とされ、その菊池氏とは菊池右近と思われ、主人である江刺重恒に諫言するもかえって疎まれて右近の子、太田代伊予は討たれ、右近は遠野へ脱出したと伝えられる。

 遠野勢を江刺郡へ招聘したのは菊池右近とも考察でき、岩谷堂城近くの戦いで遠野勢と共に敗れて遠野へ落ちていったが史実なのかもしれない・・・?

 他に「住田町史」には江刺兵庫頭重恒の言い伝えについて記述され、大酒飲みで女好であったと云われている。

 家老の菊池右近は重恒の命により世田米氏(現住田町の豪族)の姫を重恒の嫁にするべく世田米氏を説得、しかし江刺重恒の行状は他にも知れ渡っており世田米氏は固辞しつづけますが右近の説得に根負けして遂に婚儀が成立、しかし、結婚一年も経たないうちに側室を置き、世田米氏の娘には目もくれず、あげくに世田米に送り返す所業となり、菊池右近の面目は丸つぶれ、以後、右近は重恒を深く恨み、世田米氏と内通し遠野の阿曽沼広郷を誘って遠野、世田米連合の軍勢を以て岩谷堂を攻めたが、戦いに敗れて遠野へ落ちて行ったと語られている。(吾妻むかし話)

 

 一連の江刺岩谷堂城攻めに関わる言い伝えについては、岩手県史に天正年中、ことに天正13年(1585)に葛西氏の臣、江刺三河守は配下の江刺郡内諸侯から糾弾忌難され、主家である葛西当主、葛西晴信から勘当されたとある。

 江刺には三河守と兵庫頭とされる郡主級の人物がこの時代存在するとされるが、いずれ江刺郡内で一族、配下の武家を巻き込んでの離反、争乱があり、その渦中に菊池右近の遠野落ちや遠野の阿曽沼広郷の岩谷堂城攻め等の事件が一連の流れとしてあったのではないのか・・・と思われる。

 江刺重恒は後に豊臣秀吉による奥州仕置で主家葛西氏と共に没落するも、田瀬(花巻市東和)に落ちていたところ、秀吉の重臣、浅野長吉の計らいで三戸の南部信直に2千石で仕え、新堀城主(花巻市石鳥谷)となり後に江刺氏は南部藩士として土沢城(花巻市東和)に移り伊達氏との境目警備の要となっている。

 現地に遠野陣場(とのずば)と称される場所が存在する事実からすれば遠野との歴史的関連があったとするのが妥当だと思われますね。

 久しぶりの郷土史、歴史ネタでしたが、今回も空振りといったところ・・・さて次回は何を・・・?・・・少し先になるかもしれませんが、お楽しみに・・・(楽しみにしてますという声は実はないです・・・)・・・

 

 

水仙も見頃となっている奥州市(江刺区)

我家の水仙はもう少し先・・・来週中には咲くと思います。

 

城跡近くの山野はウグイスの鳴き声が響き渡ってました。

 

完全に「ホーホケキョ」と・・・!

 

 

仕事での1サイクルが終了・・・!

僅か3週間、7当直というところですが、ようやく1サイクルという印象で、先月末での久しぶりの八戸訪問が、数ヶ月も前の出来事という錯覚も・・・

とにかく疲れたが本音!、久しぶりの4連休中ですが、一区切りということで史跡めぐり含めてリフレッシュするべく今回内陸方面に出掛けておりました。

結局、上にも記したように収穫はほとんど無かったですし、花巻方面に移動して、一ヶ月ぶり?のいつもの温泉施設での日帰り温泉を楽しみました。

久々に、まったりとはいきませんでしたが、少しのんびりできたようですし、身体も今の環境にだいぶ慣れてきた感じなので来週から、少し加速して頑張ろうと思うのでありました・・・

 

 

 

 

わたすは・・・・・・このようなことは趣味ではありませんし、興味もいささかありません・・・

 

史跡探訪中に廃棄?された図書を発見・・・

 

 

 

ちょっとパラパラとめくって・・・という衝動に駆られたのは云うまでもない・・・

・・・

 

観てませんよ・・・・・・

コメント (10)
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