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浅沼八幡宮(阿曽沼城跡) 栃木県佐野市にお立ち寄り

2024-05-09 18:18:02 | 歴史・民俗

 令和6年(2024)4月9日(火)~11日(木)、3年目となる北関東方面へのドライブ旅を敢行しましたが、メインは「わたらせ渓谷鐵道」の撮り鉄ではありますが、お立ち寄り先としての一発目は栃木県佐野市浅沼町の「浅沼八幡宮」を訪ねました。

浅沼八幡宮拝殿

生憎の雨模様、しかも雨脚も結構強くて傘利用も足元(靴)は濡れるは、肩辺りもびっしょりとなりました。

浅沼八幡宮訪問は今回で2度目、最初は20年前後前か?郷土史関係の調べで佐野市図書館を訪ねるためにJR両毛線佐野駅に降り立ち、図書館を訪ねる前に浅沼八幡をまずは訪ねてからと、タクシーで向かいました。

タクシーの運転手さんに行先を告げると、はてな?其処って何処?みたいな言動であったことを記憶しております。

ただ浅沼町ということで、大方の雰囲気は分かったということで連れて行っていただきました。

住宅地の中にある神社で社は立派でしたが境内は狭いと感じた記憶と、隣接に集会所みたいな建物があったことは覚えております。

今回は事前にGoogleマップで何度か確認、カーナビもセットして臨みましたが現地近くまでは案内されるも道が思っていたより狭くて、一方通行か?と思うほど。

なんか雰囲気は違うかな?と狭い道を進むと集会所と鳥居が目に入り「あっ、ここだ」確信しました。

駐車スペースには数台の乗用車が駐車してましたが、社務所みたいな建物や集会所は無人でした。

境内の道路側の空スペースに車を停めて、雨中参拝と境内の探訪となりました。

浅沼八幡宮は実は古城跡に建立されたんですね。

阿曽沼城跡

中世遠野領主として約400年間、遠野郷を統治した阿曽沼氏発祥の地、故地ということです。

境内の裏、感覚的に東側には当時の防御遺構としての空堀跡が残されております。

空堀跡

訪ねた思惑は神社の参拝も兼ねての城跡探訪が正しいですね。

 

遠野とも縁が深い場所でもありますので、もう1度くらいは訪ねてみたいと思っておりまして、今回お立ち寄り先として考えておりました。

雨は残念でしたが、訪問出来て良かったです。

 

◇ 阿曽沼氏(あそぬまし)

藤姓(藤原流)足利氏 足利 有綱(戸矢子七郎有綱)の二男「阿曽沼広綱」(足利七郎四郎・阿曽沼四郎広綱)が下野国阿蘇郡阿曽沼郷(栃木県佐野市浅沼町とその一帯)を領して阿曽沼氏を名乗ったとされる。

※源姓足利氏とは別流。(足利尊氏等)

〇 藤姓足利氏

平安中期に活躍した下野守・武蔵守・鎮守府将軍 藤原 秀郷(俵 藤太)を祖とする家系

秀郷を祖とする藤姓子孫は全国、特に関東及び陸奥(奥州)に広がり平氏、源氏と並んで武家の棟梁として多くの家系を輩出した。

 

源平の戦いがはじまり、既に平家大軍を富士川の戦いで破った源 頼朝であったが頼朝の叔父である志田 義広が反頼朝として挙兵し下野国へと迫って来る。(平安末期の寿永(1182)2月)

義広勢は下野国(栃木県)の大族である足利宗家(阿曽沼広綱の伯父 足利 忠綱)と小山 朝政(藤姓)に加勢を求めると足利氏は呼応するも小山氏は応じなかった。

父の足利 有綱、阿曽沼広郷及び兄で佐野 基綱や弟の木村 信綱は足利宗家に従わず小山氏に加勢し、劣勢を跳ね返した小山方が勝利した。

これにより足利宗家は没落し、足利一門は足利 有綱が唐沢佐野氏として主流となって子の佐野 基綱以下代々命脈を伝えた。

これにより阿曽沼広綱も佐野武士団の一翼とし、さらに鎌倉御家人として繁栄していくことになります。

 

◇ 阿曽沼広綱

平家追討、奥州平泉藤原氏征討した源 頼朝が鎌倉幕府を開府すると阿曽沼氏は本家佐野氏と同格の御家人として認められた存在であったと云われる。

「吾妻鏡」には阿曽沼四郎広綱、足利七郎四郎、浅沼・・・と登場、記されているとのことで源 頼朝挙兵以来の重臣や有力御家人と交名の並べ方が同じ扱いとの見解でもある。

建久元年(1190)10.3 源 頼朝は上洛のため2千余騎の軍勢を率いて鎌倉を出発、先陣随兵の隊列は、15番中央の列に佐野又太郎(※佐野国綱)、53番中央に※足利七郎四郎(阿曽沼広綱)、右に足利七郎五郎(木村信綱)、左に小野寺太郎(小野寺道綱)、54番中央に足利七郎太郎(佐野基綱)、左が佐貫太郎(佐貫国綱)と記されている。

※足利七郎四郎 阿曽沼広綱は四郎広綱であるが父の足利有綱は七郎有綱なことから七郎の子、四郎すなわち七郎四郎という見解である。

※佐野国綱・・・佐野宗家 佐野基綱の嫡男

神社境内の看板

鎌倉御家人としての阿曽沼氏が顕彰されております。

阿曽沼氏800年記念碑

 

◇ 中世遠野領主 阿曽沼氏 

阿曽沼広綱は奥州平泉藤原氏征討軍として従軍、戦功の恩賞として奥州陸奥国遠野保・郷(岩手県遠野市)を源 頼朝から賜ったと伝えられる。

横田城跡(護摩堂館) 遠野市松崎町光興寺

横田城は一説には建保年間(1213~1218)に二代 阿曽沼 朝綱の弟、阿曽沼 親綱が遠野へ下向して横田城を築いたと伝承されている。

ただし遠野は当初、下野国本貫地より遠隔統治されており代官が派遣されていたと考証がされている。

いつの時代に阿曽沼氏或いは一族が下向し本格統治に移行したかは不明とされるが、代官として宇夫方広房が派遣されたと伝承され、以来代々宇夫方氏が代官として一定期間において統治したと伝えられる。

 

◇ 全国の阿曽沼氏所領

〇安芸国安芸郡世能庄(広島県広島市安芸区上瀬野他)

安芸国世能庄は承久の乱(1221)の戦功により広綱二男の阿曽沼親綱が世能庄の地頭職に補せられた。

阿曽沼親綱は鳥籠山城を築いたと伝承され陸奥国遠野郷同様に代官を派遣して下野国の本貫地より遠隔統治をしていたと考察されている。

〇伯耆国久米郡矢送庄(鳥取県倉吉市関金町付近)

建武5年(1338)2月、南北朝期、足利 尊氏から安芸国三津村を伯耆国矢送庄の代替地として拝領しているので、伯耆国の所領はそれ以前からあったものと推察される。

〇安芸国三津村(広島県東広島市安芸津町)

前記、伯耆国矢送庄での記載のとおり

〇備中国呰部(あざべ)(岡山県上房郡北房町上呰部・下呰部)

建武2年(1335)7月の「中先代の乱」での戦功として足利 尊氏より恩給された。

 

◇ 安芸阿曽沼氏

安芸国世能庄地頭職として補任されたが、鎌倉末期頃には阿曽沼氏一族が下向して鳥籠山城を拠点に勢力伸長し安芸国の有力国人へと成長して、尼子氏、大内氏、毛利氏・・・といった中国地方の大勢力の中で存続、戦国時代には毛利氏の麾下に属し後に毛利家家臣となり、江戸期は長州藩士として継続した。

  

◇ 遠野阿曽沼氏

阿曽沼広綱の二男、阿曽沼親綱からの流れで4代後の朝綱から始まると推察されるも詳細は不明。

一説には朝綱の子、或いは弟とも考察される朝兼から阿曽沼一族による現地統治が始まったものか?

遠野阿曽沼氏は現遠野市全域はおろか沿岸方面の釜石、大槌へも進出し、親族を郷内各地に配置して領内経営の安定を図っていた。

北の南部氏、斯波氏、西の和賀氏、稗貫氏、南の葛西氏との均衡も保ちつつ存続し、遠野孫次郎こと阿曽沼広郷時代には歴代でも絶頂期を迎えたと云われている。

天正年間(1573~1592)中には居城の横田城(松崎町光興寺)を鍋倉山に移した。

しかし、親族の鱒沢氏(鱒沢左馬之助広勝)の台頭によって主家との争いが激しくなり、阿曽沼氏による郷内統治も陰りを見せ始める。

北の南部氏(南部信直)の南下攻勢が激化し、紫波郡の斯波氏が滅ぼされると南部氏の脅威が増してきた矢先、中央では豊臣秀吉が天下人となり、小田原北条氏征伐への派兵要請が奥羽各地の大名、領主等に届けられる。

阿曽沼広郷はこれに応じることができず遠野の領主権を剥奪されたが、陸奥国閉伊郡、和賀郡、稗貫郡と広大な土地を新封地として得た南部信直の附庸、すなわち勢力下となることで命脈は保つことはできた。

阿曽沼広郷の後を継いだ遠野孫三郎こと阿曽沼広長は、南部氏の命で九戸政実の乱、最上の陣(上杉景勝攻め)と南部氏配下として従軍あるいは軍勢を出している。

豊臣秀吉が没すると徳川家康と石田三成が対立し関ケ原の戦い(1600年)が勃発、南部氏は徳川方、東軍となり西軍の会津、米沢の上杉景勝攻めに最上へ出陣し、阿曽沼広長も南部氏に従って出陣した。

広長が留守中の鍋倉城が一族の鱒沢広勝(左馬之助)、広長叔父とされる上野広吉、重臣の平清水景頼(駿河)によって占拠され、いわばクーデターが起こる。

最上の陣からの帰途の広長は領内境で阻まれて遠野領内に入ることができず、軍勢を解散して自身は近臣と共に伊達氏領内の気仙郡世田米(住田町世田米)に亡命するや、伊達政宗の後援を得て現地勢力を結集して3度の遠野奪還の戦いを挑むも全て敗れて遠野の支配権等を失い没落したと伝えられている。

(平田の戦い(住田町上有住)・赤羽根峠の戦い(上郷町)・樺坂峠の戦い(小友町))

遠野郷は南部氏による支配権が実質的に確定し、後年の寛永4年(1627)3月、八戸根城の八戸氏(遠野南部氏)が入部してより確実なものとなった。

阿曽沼公歴代々之碑 遠野市松崎町光興寺

遠野阿曽沼氏、最後の当主である阿曽沼広長は伊達家支配の気仙郡内に亡命、遠野奪還の戦いに敗れて没落と伝えられるが、実は仙台藩で生き延び、その子孫は仙台藩前沢三沢氏の家臣となってその命脈を伝えられている。

また、下野国本貫地の阿曽沼氏は唐沢城の佐野氏一門として栄えて、江戸期には喜連川公方足利氏(5千石の旗本交代寄合クラスながら10万石の大名の格式であった)の重臣で後に佐野氏を名乗り、さらに浅沼姓を名乗ったと云われる。

阿曽沼公歴代之碑は、昭和28年9月23日に日蓮宗開宗700年にあわせ地域住民や阿曽沼家のご子孫などによって建てられた。五輪塔はもと阿曽沼家の菩提寺であった養安寺(松崎町上松崎・古に廃寺)にあったもので、養安寺に仮住まいしていた善明寺が現在地に移転する際、墓碑と思われる2基の五輪塔を移したが、1基が阿曽沼氏の墓として現在地に安置され、1基は善明寺(大工町)に市指定文化財として保存されている。 

 

終わりに・・・

前回(約20年前)佐野市立図書館で調べものをするため佐野市を訪れ、まずは浅沼八幡宮の参拝、そして図書館へと足を運びました。

先方には事前にメールで調べものの趣旨や観たい資料等を告げておりまして、対応いただいたのは学芸員さんかな?若い女性でありましたが、お名前等は忘れてしまいました。

丁寧にご対応いただき、一緒に該当するであろう資料、書籍を探してくださり大いに助かった記憶があります。

年月はたいぶ経ってますが、あらためて感謝申し上げます。

「お世話になりました。ありがとうございました。」

目ぼしい資料は少なかったですが、現地の郷土史家の阿曽沼氏に特化した資料の一部をコピーいただいたこと、何よりも記憶に残るのは、当時既に刊行されてますが遠野市史編纂(昭和49年発行)での内容

、第1巻での中世期、阿曽沼氏時代の執筆を担当された編纂委員であった昆先生と佐野市浅沼町在住で阿曽沼氏のご末裔で郷土史家であった浅沼徳久氏との原稿のやりとりの痕跡でした。

郵送でやりとりされていたようで遠野側から執筆内容に佐野側では赤鉛筆で斜線や〇印を付けたり、或いは訂正を促す意味か?別な文言が記述されたりと生々しいやりとりでありました。

こんなやりとりを経て書籍が刊行されても、だいぶ、いやっかなり遅れて小生が買い求めた中古としての遠野市史全4巻は遠野在の郷土史家が持っていた古書のようで、その内容にはこれは間違いとばかりに、やはり赤ペンで線を引かれたり文言が訂正されておりまして、先生方でも見解や考察の相違はあるのは当たり前と思うも、かなり吟味し調べても完璧とはならないという思いとなりました。

阿曽沼氏は鎌倉初期(1189?)から関ケ原の戦い(1600年)までの約400年以上にわたり中世期の遠野を治めておりました。

後の江戸期における遠野南部氏治世の倍近くの年月となります。

阿曽沼氏もまた現在の遠野の礎を築いたといっても過言はないと小生は思いますが、時代の新しい南部氏関連縁の自治体等との交流ほど阿曽沼氏に関係する地域との交流はないのが現状でもあります。

いやっ皆無が等しいでしょう。

べつに新たに交流せよ・・・ということではありません、遠野の歴史に少しでも触れ、そのルーツをちょっと考えてみる、思い起こしてみながら何かの機会に栃木県に出かけたら、「そういえば栃木県の佐野市は遠野に縁ある土地のひとつだったなあ」程度でもよいので頭の片隅に置いておいてほしいと思います。

どんどはれっ  

 

参考資料 「佐野市史」・「遠野市史第1巻」・浅沼徳久氏著 「阿曽沼城〇略〇」略字で読めず。

 

 

コメント (6)
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