菊池一族の岩手流入、そして遠野への移住については九州は肥後の国(熊本)からの菊池氏落人説が一般的ですが、はっきりいってこれといった文献の存在があるわけでもなく、一部、ほんの僅かに旧家に残された系図とその地域で語られる言い伝えのみという現実でもある。
この乏しい内容からではあるが、識者や研究者により調査もある程度行われ、大方の説等は出尽くした感じさえもします。
そんな状況ではありますが、あえて今一度、じっくりと私なりに調べてみたい、精度は低いかもしれませんが、時間はかかるかもしれませんがシリーズとして今現代に近い時代から遡る方式であれこれ考えてみたいと思います。
第1回目は江戸期、(南部藩)盛岡南部家の家臣で遠野地方を知行していた遠野南部家(約1万2千5百石)の家臣団、明治維新後に遠野士族となり、その士族名簿から少し考えてみたいと思います。
遠野士族名簿(コピー)から
遠野南部家家臣は所謂陪臣(ばいしん)、盛岡南部家の家臣が遠野南部氏であり、その家臣は盛岡の家臣ではなく遠野南部家の家臣ということで陪臣となります。
陪臣たる遠野の武士達は明治維新の後、奉還禄公債ももらえず、それどころか当時唯一の名誉でもある士族にもなれずでしたが、明治30年(1897)遠野南部家当主の南部行義が男爵となり華族に列せられたことから遠野の旧臣達による嘆願で士族となることができた。
これにより明治33年(1900)遠野士族名簿が編纂されたとある。
〇菊池姓家臣は下級家士
さて、肝心な菊池姓であるが、遠野士族名簿等によると240名の士族中、菊池姓は25名となっている。
全体の1割強が菊池姓、これが多いか少ないかといえば、やはり多いというべきと思います。
菊池の次に多い姓は小笠原姓14名
次に多いのが工藤姓と松田姓それぞれ10名
ということは、江戸期から菊池姓の家臣がけっこう居たということになります。
ただし、菊池氏の家々は、ほとんど下級家臣ばかり、30石と20石の遠野でいえば中士クラスが4家のみ、17石が1家、10石が2家で、後は5石以下の家々となります。
ですから内職やら百姓もしながらで生計を維持していただろうと推測されます。
明治の新姓で遠野では、おそらく一気に菊池姓を名乗ったこと、そして広がったことは間違いないのですが、その地域に君臨した菊池姓の武家が存在したという形跡も無く、また肝煎りというべき菊池姓縁の庄屋クラスの家々も数多く存在したということもない雰囲気でもある。
ただ、菊池姓そのものを名乗る家々のみならず旧姓を菊池と称する家々の存在の実はあるようで、例えば駒木氏・・・遠野南部家家臣でも駒木氏は6家確認できる。
このことは続編というか江戸期関係の章でご紹介したいと思います。
遠野の菊池姓は
遠野市小友町
遠野市青笹町
遠野市上郷町
上記の3地域が特に繁華な地でもある、今回の遠野士族名簿では明らかにならなかった感じはいたしますが、その士族達の旧知行地或は出身地、縁のある地域等を調べられれば、何かしら得るものもありそうです。
遠野士族、240名と記しましたが最終的には400名近い内容となっております。
中には肝煎りや商人といった遠野南部家に献金等を行い名字帯刀を許されたり俸禄をいただいた家々、人々もあり、この中にも菊池姓関連があるものと推察されます。
ですからこの時代でも菊池姓は遠野に関わりがあり深かったという結論に至るものと私は考えております。
参考図書 遠野市史1~4 遠野士族名簿 遠野南部家物語・新遠野物語(吉田政吉)
少しずつ取り上げていきましょう!笑
小友・上郷・青笹と後は小さい集落単位で市内にいる菊池さん、
北上してきたことに間違いはないでしょうが、ルーツはどのあたりの菊池さんにしましょうか?笑
間もなく菊池、西米良の皆さんの交流団が来られますが、このシリーズを立ち上げたのが1年前、なのでこれをきっかけにと思っての事、2弾、3弾まではいけそうですが、その後はまたまた停滞して1年後になるかも?そんな感じでボチボチやっていきたいと思います。
遠野の菊池性探求が終わったら、次は県内探求はいかがでしょうか?
その次は全国?
こちらは資料も薄く図書も貧弱でいつもの如しです。
県内さらに全国は考えてません、結局は遠野となりますがやはりお茶を濁して結論は無しとなりそうです・・・汗
稚拙なブログは更新出来ずとも、なんとか、コメントぐらいは出せる状態のビナヤカでございます(^^;)
『菊池姓探求....』、私の本妻(?)の旧姓が「菊池」です^^、実に興味ありますねぇ~^^
最初に「並鷹羽」からきましたね~♪、次回、「違鷹羽」・期待しています♪
コメントありがとうございます。
菊池姓探究も本腰を入れればよいのですが、どうしても妥協したり、じっくり取り組むこともままならず状態の中、見切り発車みたいな感じで精査に欠けます。
家紋もしかりで違い鷹の羽紋がなぜ菊池なのか遠野の菊池さんなのか、これは後回しで、ひょっとして難しいかもしれません。
菊池氏の家紋でもある「違い鷹の羽紋」については、ちょっと驚く情報があります...(珍情報かもしれませんがネ^^;)
いつかまた笛吹さんにお会いする機会がありましたら、お話してみます^^)
今はこの分野のアンテナも低く、また図書を漁ったりもまったくもって無きに等しいですので、今はなんともなりません。笛吹さんを通じても構いませんので色々と御聞かせ願えればと思います。
横浜市在住の菊池と申します。
ブログを興味深く拝見いたしました。
私は神奈川県に生まれ60年を当地で生きてきましたが、祖先は遠野に生きておりました。
恐らくは維新後に菊池を名乗った貧しい農民だったのではと思っておりますが、祖父の時代、昭和初期に遠野を離れて釜石に移り、更には一家で神奈川に移り住んだこと、他に祖父の親類が居なかったこともあり、当事者たちが全て他界してしまった今では、もはや祖先のことを知る術がありません。
古い謄本に残る祖先の記録のみが、私のルーツが遠野にあることを物語ってくれている状況です。家紋は丸に違い鷹の羽が受け継がれてきています。
3年前より、毎年秋に行うみちのく旅の途中に遠野を訪れ、先祖を偲んでおります。
今年も旅の計画を練りながらWeb検索をしておりましたところ、菊池様のブログに立ち寄らせて頂いたという次第です。
民族博物館の展示ような菊池様のブログ記事には、すっかり虜になってしまいました。これからも楽しみにしております。
因みに、「明治初年の遠野城下地図」に大変興味を持ちました。
この地図を手に、遠野市街を散策できたらさぞ楽しいことでしょう。これを見ることができる場所をご教示いただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
当ブログへのコメント、ありがとうございます。
遠野縁の横浜の菊池さんということ、遠野へも度々お越しとのことで親近感を覚えます。
昭和初期に遠野を離れられたとのこと、戸籍謄本の存在からある程度、遠野でのことや親せき等は判る感じもいたします。
また、当時の菩提寺もなんとなくわかりそうな雰囲気もして、もう少し調べれば何か出てきそうな感じもします。
明治初年の地図は遠野の郷土史関連の書籍の表紙裏面に描かれたものですが、ちゃんとした古地図はあると思いますので遠野の市立博物館、図書館をお訪ねになればコピー等の提供を受けられると思います。
今月は遠野まつり、来月は紅葉となります、是非に祖先の地、遠野へ今年もお越し願えればと思います。
今後ともどうぞよろしくお願いします。