「遠野ブログ画像展開催について」は・・・
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仙台の東北歴史博物館で「慈覚大師円仁とその名宝」と題しての特別展が開催中である。
機会は自らつくるものとネット仲間から指摘されたことがありましたが、それでもなかなか機会は、つくることはできない・・・・涙
どうやら今回は見学できそうにない。
さて、慈覚大師といえば、遠野でもその足跡が語られる伝承があり、馴染みのある人物でもあります。
遠野というよりも東日本、さらに東北に最も縁ある高徳で、立石寺(山形県)、中尊寺、毛越寺、黒石寺(岩手県)をはじめ、ゆかりの寺社が数多くあり、東北は円仁への思いが特に強く残る地域といえます。
遠野では早池峰山妙泉寺の開基や遠野七観音の草創に関わったことになっており、遠野のかつての信仰の根底といっても過言はないと私は考えてます。
大出早池峰山妙泉寺跡(現早池峰神社)
慈覚大師円仁は・・・・
延暦13年(794年) ~ 貞観6年1月14日(864年)
下野国(栃木県)で生まれ、大同3年(808年)、15歳で比叡山に登って伝教大師最澄の弟子となり、最澄のもとで天台教学を学び始め、その後、遣唐僧となって最新の密教や法華経と阿弥陀信仰などを持ち帰り、世に広めた。
その業績は高く評価され、わが国最初の大師号である「慈覚大師」を贈られた。
ということで、慈覚大師の遠野での足跡をみると斉衡年間(854~856)の間に慈覚大師が遠野に至り、高弟持福院を早池峰山に据え、山号早池峰山、寺号妙泉寺、院号持福院、坊号大黒坊のはじまりとされる。
さらに大出妙泉寺との関わりを伝え、後に遠野七観音と呼ばれる寺院等の創建も嘉祥年間(848~850)とも斉衡年間(854~856)と伝承されている。
慈覚大師円仁が遠野へ来たのだろうか?、東北に関わる寺だけでも300以上とされる伝承を持つ慈覚大師、これだけ大きな足跡を残し、今日まで語られる慈覚大師ながらも、後の時代、おそらく慈覚大師の弟子達やら天台の教えを広めるためにやってきた天台の僧達の活発的な布教活動によるものなのではと私は考えている。
ここで根拠を詳しく語る知識は持ち合わせていないが、遠野へは来なかった・・・だろうということで、今後、この方面の研究も行ないたいと思っております。
しかしながら、遠野における天台の寺院は古きに廃れたという経緯が認められるも、現在の七観音の中には、天台の寺院と伝えられるものもあり、また天台の寺院があったとされる寺跡伝承も残されていることから、この方面の調べも課題として取り組みたいと思っております。
ついでに・・・・・
重端渓
さらについでに・・・・旧大出小中学校
今年3月(2007)をもって統合され、廃校となりましたが、今でも校舎から子供達が飛び出してきそうな雰囲気が感じられます。
私も複式学級の小さな小学校を卒業した経緯がございますが、そこに母校がない、後輩たる子供達が居ない寂しさは経験済みでもありますし、大人となった今、当時大人達が言っていた子供達の歓声が聞こえない学校、その気持ちがようやくわかった思いもいたします。
スローライフをうたう遠野、確かに生活やら雰囲気はゆったり流れていると都会に比べれば感じられるも、時代の流れは容赦なく押し寄せている、そんな雰囲気も感じられる昨今でもあります。
おまけ・・・・今日の一枚・・・。
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仙台の東北歴史博物館で「慈覚大師円仁とその名宝」と題しての特別展が開催中である。
機会は自らつくるものとネット仲間から指摘されたことがありましたが、それでもなかなか機会は、つくることはできない・・・・涙
どうやら今回は見学できそうにない。
さて、慈覚大師といえば、遠野でもその足跡が語られる伝承があり、馴染みのある人物でもあります。
遠野というよりも東日本、さらに東北に最も縁ある高徳で、立石寺(山形県)、中尊寺、毛越寺、黒石寺(岩手県)をはじめ、ゆかりの寺社が数多くあり、東北は円仁への思いが特に強く残る地域といえます。
遠野では早池峰山妙泉寺の開基や遠野七観音の草創に関わったことになっており、遠野のかつての信仰の根底といっても過言はないと私は考えてます。
大出早池峰山妙泉寺跡(現早池峰神社)
慈覚大師円仁は・・・・
延暦13年(794年) ~ 貞観6年1月14日(864年)
下野国(栃木県)で生まれ、大同3年(808年)、15歳で比叡山に登って伝教大師最澄の弟子となり、最澄のもとで天台教学を学び始め、その後、遣唐僧となって最新の密教や法華経と阿弥陀信仰などを持ち帰り、世に広めた。
その業績は高く評価され、わが国最初の大師号である「慈覚大師」を贈られた。
ということで、慈覚大師の遠野での足跡をみると斉衡年間(854~856)の間に慈覚大師が遠野に至り、高弟持福院を早池峰山に据え、山号早池峰山、寺号妙泉寺、院号持福院、坊号大黒坊のはじまりとされる。
さらに大出妙泉寺との関わりを伝え、後に遠野七観音と呼ばれる寺院等の創建も嘉祥年間(848~850)とも斉衡年間(854~856)と伝承されている。
慈覚大師円仁が遠野へ来たのだろうか?、東北に関わる寺だけでも300以上とされる伝承を持つ慈覚大師、これだけ大きな足跡を残し、今日まで語られる慈覚大師ながらも、後の時代、おそらく慈覚大師の弟子達やら天台の教えを広めるためにやってきた天台の僧達の活発的な布教活動によるものなのではと私は考えている。
ここで根拠を詳しく語る知識は持ち合わせていないが、遠野へは来なかった・・・だろうということで、今後、この方面の研究も行ないたいと思っております。
しかしながら、遠野における天台の寺院は古きに廃れたという経緯が認められるも、現在の七観音の中には、天台の寺院と伝えられるものもあり、また天台の寺院があったとされる寺跡伝承も残されていることから、この方面の調べも課題として取り組みたいと思っております。
ついでに・・・・・
重端渓
さらについでに・・・・旧大出小中学校
今年3月(2007)をもって統合され、廃校となりましたが、今でも校舎から子供達が飛び出してきそうな雰囲気が感じられます。
私も複式学級の小さな小学校を卒業した経緯がございますが、そこに母校がない、後輩たる子供達が居ない寂しさは経験済みでもありますし、大人となった今、当時大人達が言っていた子供達の歓声が聞こえない学校、その気持ちがようやくわかった思いもいたします。
スローライフをうたう遠野、確かに生活やら雰囲気はゆったり流れていると都会に比べれば感じられるも、時代の流れは容赦なく押し寄せている、そんな雰囲気も感じられる昨今でもあります。
おまけ・・・・今日の一枚・・・。
斉衡年間 慈覚大師円仁の創建と伝えられている寺や仏像はたくさんあります。
伝教大師が唐より持ち帰った仏教(密教)が不十分であったものを、円仁が唐に渡り相承し持ち帰ったことで天台宗は密教として確立されたのですね。
天台宗は国家鎮護の役目を天台宗に課したのではないでしょうか。ですから、征服した地の人民の心身の安定のため仏教を遣わしたのではないしょうか。
円仁が直に赴いたのではないにしろ、円仁の名代として誰かが各地に赴き、天台の教えと共に国家安寧の礎を残したのだと思っています。
空海の真言宗は西日本、最澄の天台宗は東日本という構図がよくいわれます。
私もそう思いますし、一如さんの言うように蝦夷達の国であった東北を制圧という外面だけではなく宗教という内面なものも利用した征服事業の一環と後の民心安定を考えたものと思っております。
ただ、色々と考えますと、天台宗もそうですが、笛吹童子さんではごさいませんが、山岳信仰の修験とか、そういった方々の影響もあったものではないのか・・・とも考えますし、天台宗そのものを考えれば、円仁の名代で各地に赴いたものではなく、さらに百年後とか、平安末期、鎌倉時代初期とか、そういった時代に円仁を高徳と崇める何かが作用したのではとも考えたりしております。
いずれ、このことは色々と意見交換等しながら、今後に活かしていきたいと思います。
話は変わるけど、皆さんは写真、選んだのすか~
なんか、もうすでに届けた人がいるとか?
まだ先のことと思っていましたが、なんとなくあせります。汗、汗
円仁も南部師行も南部守行も遠野へ来なかった・・・これが当方の私論でもありますが、その根拠を探す、これもまた楽しいです・・・汗
さて、画像展、ステージは出来上がり、場も盛り上がっており、このまま加速しそうな勢いですが、画像申し込みは、まだまだ先のこと、焦らなくてもよいとおもいますぜ。
でもそろそろ候補をしぼったり、今後、それようの写真を撮るならば意識して撮影した方が良いと思っております。
当方、一枚は既に決定済みながら、もう一枚が・・・・悩むところです。
で、下世話な話題に走るわけですが(笑)
あの窓辺に佇むお方はまだご健在ですか?
あの窓辺の御仁、今回は確認してません・・・汗
きっとご健在かと思いますよ。
来週の宵宮にでも行きましたら、まがってみたいと思います。