「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

鶯の湯っこ・鶯宿温泉へ・・・

2009-03-10 18:54:05 | 湯っこ・鉄道・旅・・・
 先月に左肩の痛みで結構難儀した際に、整形外科医院の薬と共に肩痛を和らげたひとつに温泉の効能があったと感じておりました。
 今現在、通常の生活や仕事では支障はありませんが、寝起の際や衣服の脱着で無理な体勢となりますと痛みが走る場面に見舞われることもあり、まだまだ完全復調といったところではありません。

 そこで、数日前から嫁さんの休みに併せて前回、湯の効能があったと信じてやまない雫石町の鶯宿温泉の某温泉ホテルに日帰り入浴の予定を立て、さらに義母や丁度高校が休みであった嫁さんの甥も誘って行って参りました。


 岩手山・・・雫石町鶯宿辺りから




 温泉神社とその由緒





 加賀の国の・・・・なるほど・・・同温泉には「加賀○」という温泉宿がありますが、これにちなむ宿名・・・納得いたしました。


 我々が訪ねた温泉宿には、嫁さんのもうひとりの甥が勤めており、今回は孫の顔をみるために義母、兄と久しぶりに会う弟・・・結構みんな楽しみに出かけたのですが・・・な・・・ななんと、本日は日帰り入浴はメンテナンスのためという休業の張紙有・・・汗

 まさかと思いながらもフロントで訪ねると、やはり休業とのこと、間もなく面会した甥曰く・・・温泉に入れないということを忘れて連絡しないでしまったとか・・・・大汗

 ということで、折角だから少し皆で話しをしてから、その場を後にしました。
 
 甥も元気そうで何よりではありましたがね・・・。



 目当ての温泉には入れないということで少しがっかりもしましたが、この界隈は温泉地帯であり、日帰り入浴可能の温泉宿が目白押し・・・比較的入りやすいところとして、「森の雫」に決定・・・此処はあのアミューズメントテーマパーク?多種にわたるプールが自慢の「けんじワールド」に併設されている温泉施設でもあります。




 メイン施設の「けんじワールド」は長期休業ということで、以前の賑わいは皆無に等しい状態で、かなり寂しい雰囲気ではありましたが、それでも案外日帰り入浴のお客さんもいて、この分野では人気があるようです。

 温泉もなかなか良く、今回も気持ちよく浸ることができました。



 日帰り入浴・・・大人ひとり8百円なそうですが・・・・ランチと入浴のセットプランがあり、ひとり1千2百円也


 ランチA


 ランチB



 上記のランチいずれかと入浴で1200円、凄い豪華なランチというわけではありませんが、この値段なら十分納得といったところではないでしょうか。

 ちなみに小生はBセット・・・肉と野菜の鉄板焼き、ブリ大根、天ぷら・・・となっております。


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大槌孫八郎・大槌氏 参

2009-03-08 18:31:48 | 歴史関連コラム?
 大槌孫八郎、伝えられる大槌城主、孫八郎は資料や伝承によれば3人確認できるが、孫八郎に関しては天正19年の九戸の陣、そして慶長5年の岩崎の陣に大槌孫八郎が南部方として参陣していた内容が確認できる。

○孫八郎家政
 大槌系図に出てくる孫八郎家政、どのような事績があったのかは不明であり、次の孫八郎広信までの歴代が不明でもある。
 系図には家政の三男とされる治郎介時成が気仙郡菊田庄の菊池氏の養子となり天正18年に流浪して遠野に至り、遠野孫次郎(阿曽沼広郷)に仕えて在名から畑中氏を名乗ったと伝えられるのみである。

 畑中氏の遠野登場は天正末期、系図に記される天正18年は、大方の年代等が符号していると思われ、畑中時成の実父とされる孫八郎家政は、さほど年代の古い人物でないことが伺われ、次の孫八郎広信との歴代があったとしても一代程度か?若しくは孫八郎広信は家政の子の世代とも推測できる。



 さて、小生が思い描く、ほとんど根拠も説明できないながらも、妄想含みの系図を描いてみましたので、ご参照願います。





○大槌孫八郎広信(広紹)

 
 孫八郎広信
 資料等に登場する孫八郎のひとりであり、天正19年(1591)の九戸一揆に南部信直方として参陣、大槌孫八郎8百石60人と記されている。
 
 遠野での資料には、遠野盟主である阿曽沼広郷が九戸の乱に参陣叶わず、嫡子の広長を名代として大槌孫八郎と共に参陣したかのような記述があり、大槌孫八郎は遠野の一族或いはある程度の勢力を持つ家臣的立場であったかのような印象でもある。
 
 孫八郎家政→広信→政貞・・・・家政と政貞は政の字を持つ当主であるが、何故に広信、そして広信の弟広重(子とも伝えられる)は広の字なのか?

 確信は無きに等しいながらも、広信は大槌の家督を継承する頃に何かしら遠野阿曽沼氏の強い影響を受けた或いは遠野から送り込まれた阿曽沼支族だったのではないのか?そしてこのことは、大槌が遠野郷の一部であり、遠野阿曽沼領であるがの如く語られる何かが隠されているのではないのかと思えてならない。

 天正年中に名を残す阿曽沼広郷、広郷はその武威が四隣に鳴り響きは、遠野での専制君主時代到来の最初であったとも考察され、この時代に大槌氏もその支配下に一応置かれたのではないのか・・・・?
 この時の産物が広信であり、本来の大槌嫡家に代って当主の座に付き孫八郎を名乗ったのではないのか・・・・推察しております。


 慶長5年での遠野の政変で遠野盟主の座を追われ、気仙郡世田米に亡命した阿曽沼広長が伊達政宗の後援を受けて気仙勢を以て遠野奪還の戦いを挑むに当たって孫八郎広信は阿曽沼広長支援の立場であったと伝えられ、その最後は、南部勢、遠野勢、閉伊勢に大槌城は四面楚歌の状態に陥りかけ、広信は伊達家領の気仙郡内へ亡命して落命とも語られますが、その真相は不明ながらも、大槌城主の座を明け渡しての行動があったものと想像がされます。



○大槌孫八郎政貞

 孫八郎政貞
 一説には広信の嫡子ともいわれるようですが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでの余波で東北地方も戦乱となり、当南部地方でも和賀、稗貫氏の旧臣等による一揆が勃発、稗貫、和賀郡内各地で戦いが繰り広げられるが、この時の岩崎の陣に南部利直勢に加わった武将に大槌孫八郎の名がみえる。
 孫八郎広信が反南部家、親伊達家という立場が語られる中にあって、何故に南部勢に大槌氏の名が記されているのか・・・・。


 信濃守利直公御岩崎御出陣人数定・・・慶長6年・・・聞老遺事

 七番 遊軍一手 八戸弾正備 士大将一騎 一万五千石 
 八戸弾正 此下三百廿人

 相備士大将一騎 二千石 大湯五兵衛 此下四十六人 内馬上三騎
    同    八百石 大槌孫八郎 此下百六十一人 内馬上三十騎


 遊軍の八戸弾正とは八戸直政(遠野南部家清心尼の夫で八戸根城城主)

 8百石余りの大槌孫八郎の率いた161人は、驚愕の数値であり、また200石当りの馬上の武士が一騎であるのが通例であるが30騎とはこれもまたかなり多い数値である。
 これは大槌のみならず、閉伊郡内の地侍や土豪も引率しての参陣と解釈されている。

 さらに、岩崎の戦いが終わるとそのまま南部利直により岩崎城に留め置かれ、岩崎城代4名の一人として名を留めている。



 慶長5年から慶長7年、二人の孫八郎が居たことになりますが、ひとりは大槌城主の広信、もう一人は南部方に加勢した孫八郎、すなわちこちらは政貞ということになります。
 広信による関ヶ原の戦いにおける真田昌幸父子のような双方に組することによるお家継続を図ったものなのか、それとも「遠野菊池党・入内島一崇氏 著」でいうように、大槌城に居たままの広信に対し、南部利直は政貞との当主交代で大槌城攻めを行わず、平和的に解決といった内容であったのか、いずれ史実では広信は大槌城を出て、孫八郎政貞が大槌城主となっている。

 
 その後の大槌氏は南部利直より3千石を給され、石高以上に海産物の取引でも潤い、繁栄したとも伝えられますが、南部家の策謀と多く語られますが、元和3年、孫八郎政貞は罪あって切腹、大槌家は絶家となる。
 南部家により謀殺ともいわれる。


 大槌城跡からみた大槌湾



 孫八郎広信と政貞は父子とも解されますが、その関係は不明とする見解もある。
 
 政貞は孫八郎家政系嫡家の子孫という思いもありますが、広信、政貞が反目していた形跡の印象は感じられなく、その関係がよく理解できない内容でもありますが、遠野阿曽沼氏同様、謎の部分が多いといったことで、今後の探究に努めれたらと思っております。

 

 
コメント (18)
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懇親会にて候

2009-03-07 18:35:13 | その他
 花金、職場の同僚達との懇親会があって参加いたしました。


 駅前某居酒屋2階にて・・・

 ジャンボ焼鳥



 今回の懇親会、例年は冬季スポーツ大会ということで、冬場の体力練成や維持、なによりもレクレーションという意味合いで仲間達と汗を流し、その後は懇親を深めるといったことなのですが、今年は、時期を逸してしまい、スポーツ大会は開催せずに懇親会のみとなりました。
 
 
 黒ソイの刺身等



 角煮



 豚キムチ鍋





 最近ハマりつつあるハイボール、さらに芋焼酎にワイン・・・結局3次会まで流れて久しぶりの日付変えしてからの帰還・・・翌日は二日酔いでほとんど家から出れずに横になったまま・・・汗・・・。



 締めのラーメン(つるや)・・・こちらも久しぶり

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大槌孫三郎・大槌氏 弐

2009-03-05 19:07:32 | 遠野史阿曽沼時代
 大槌氏
 中世~近世初頭、三陸沿岸の大槌一帯を領した武家で、江戸初期には北は現在の下閉伊郡山田町の豊間根、南は気仙郡境の釜石市平田、西は遠野境の山間地までの広大な沿岸地域を勢力範囲とし、3千石ともいわれる。
 南部藩政時代初頭、元和3年、太守南部利直により、罪あって断家となり滅亡・・・とされる。



大槌城跡本丸



 大槌氏は所伝によると遠野阿曽沼支族と語られ、大槌を含む釜石地域は遠野郷の内ともいわれ、遠野阿曽沼領であったともいわれている。
 果たしてどうであったのか?大槌氏は阿曽沼氏の家臣的立場の武家であったのか、さらに大槌地区は遠野領であったのか?確たる証は今のところ見つけ出すことはできず、推測やら伝承の類といった内容に頼るほかは手立てが薄いといっても過言ではないことでもある。



○大槌氏歴代の謎と、その出目

 大槌氏は一説には、遠野領主、阿曽沼親綱(鎌倉初期)の二男、遠野次郎が大槌地域を分地されたのが始まりと伝えられる。
 また、別説でも阿曽沼朝綱(鎌倉末期~南北朝初期)の二男、次郎が大槌地方に分族したのが始まりとも語られる。





 近世における各歴代当主の没年等に不審はあるが、伝えられる系譜としては大方、系図①のように伝えられている。





 さらに詳しくまとめられた系図が大槌町史に掲載されているが、それを私なりに若干抜粋した系図が上記の系図②である。


 大槌での最初が南北朝期の前半部分といった印象でもあるが、ここでも阿曽沼氏の血縁、支族といった内容である。
 ただし、系図の歴代共に語られる歴代当主は、次郎、孫三郎、孫八郎・家政、広信、政貞のみで、大槌氏280年と伝えられる中にあって、歴代当主不明、空白年代があるのは何故なのか、三陸沿岸の大族との位置付ながらも謎の部分があまりにも多いのが事実でもある。


 敗者の歴史は語られず・・・江戸初期、南部氏によって断家、いわゆる取り潰しの憂き目となった史実があり、これによりその事績は徹底的に闇に葬られた、或いは人々が口に出すことも叶わず、これにより、その多くが伝えられなかった、消えた歴史といった内容もあったものと推測はされますが、それにしても謎の部分、時代があることは否めない。


 謎の一族、大槌氏・・・・
 遠野阿曽沼氏との関連を否定する何かは今のところ見当たらない、むしろ何かしらの関係があったのだろうということが脳裏から離れることはないが、以前に別サイトでも記しておりますが、南北朝時代の前後、遠野は領主権を持つ本国下野国(栃木県佐野市)阿曽沼氏と現地の統治を任された代官職の阿曽沼庶流家があって、その代官職の執権が宇夫方氏、或いは宇夫方氏そのものが阿曽沼庶流の家柄であったものかもしれない。

 南北朝争乱も落ち着いた時代、遠野領の主権を持つ阿曽沼主家が遠野へ下向、主家による本格統治の時代へとなると、かつての代官職を持つ庶流は、家臣化への道を歩まざるを得ない状況に陥り、これを嫌った一派は海岸方面、すなわち大槌へ移動したのではないのか?そして近隣の気仙郡内の豪族含む菊池一族や閉伊郡の閉伊氏一族との婚姻等で力を貯え、ある程度の勢力を有するようになったのではないのか?
 永享9年、遠野横田城が気仙勢と大槌孫三郎に攻められた事件が語られますが、大槌孫三郎はかつての本拠地、遠野奪還の大義名分により遠野横田城を攻めたのではないのか?妄想ながらもそんな思いがいたします。

 結局は永享年間の事件では、伝承によれば三戸の南部守行、義政父子が遠野へ来援、気仙、大槌勢は散々に敗れて撤退、大槌城は南部勢、遠野勢に囲まれ、籠城戦となるも、攻め手の大将南部守行が流れで瀕死の重症となり陣没。
 南部勢、遠野勢は兵を引いたとされるが、何故にこれに対する南部方の報復がなかったのか?これもひとつの疑問でもあり、事件そのものが果たして史実であったのか、それとも年代が違っていたのか?


南部勢本陣とされる古廟坂方面




 
 遠野での伝承に土淵角城館主の沢村氏は大槌孫三郎の兄といわれている。
 その事績は全く伝えられていないし、その関係を図る資料もなく具体的な言い伝えも実はされていない。
 ただし、土淵は大槌への道での遠野側の玄関口といった位置付でもあり、その方面に大槌氏或いはかつての代官職を持っていた庶流の一派が根付いていた、これも少しではあるがあり得た内容とも推測される。
 遠野全体を阿曽沼主家が抑えていたといった雰囲気が感じられない思いもあるのも事実で、このことについては徐々に確かめるように調べを進めて参りたいと思ってます。

 
 余談になりますが、土淵町角城館下の家々に前川姓のお宅が何件かある。
 その昔、角城館は沢村氏が館主であった時代と前川氏が館主であった時代があったと推測しております。
 前川氏といえば豪商吉里吉里善兵衛の本姓でもありますが、まさに大槌の豪商・・・善兵衛に関わる前川氏が角城館縁の前川氏との確証はなく、時代も違いますが、大槌との関わりを少し感じる思いでもあります。
 単なる小烏瀬川の前に住んでいたから前川では小生の妄想はそれで終わりではありますが・・・。



 次回は「参」として孫八郎を記してみたいと思ってます。
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大槌孫八郎・大槌氏 壱

2009-03-03 18:42:46 | 遠野史阿曽沼時代
 大槌城・・・城山公園












 本丸(主郭)




 主郭から二の郭方面




 3月3日、世間では雛祭りの日であるが、前日のエントリーにもあるように、特別に何かをするということもないので、久し振りに湯っこでも堪能しようということで、暖かそうな沿岸部を目指して釜石方面へ・・・湯っこといえば、釜石方面では大槌の「マストの湯」しか思い浮かばなかったので、一路大槌町を目指す。

 午前10時過ぎに到着・・・なな・・・なんと湯っこは午前11時開店ということで、少し時間があったので、大槌城址、城山公園にて時間潰しのつもりで移動する。






 今回で4度目の訪問、大方の探訪調査は終えているつもりであるが、最奥部である本丸への道が解放されている。
 これはチャンスとばかり、車で頂上まで・・・ラッキー・・・歩きですと道は舗装され良いものの一汗掻かずには済まないキツイ登りの城跡であり、遠野の鍋倉城よりも長い登りでもありますので・・・汗






 ○大槌城
 遠野阿曽沼支族、大槌氏の居城。
 本丸から東側尾根沿いに二の郭、三の郭、四の郭と設けられ、他の尾根にもいくつかの砦的な郭を持つ堅固な山城で、その規模は上閉伊郡最大ともいわれる。
 
 まさに難攻不落といったイメージでもあり、小生が探訪する館といわれる遠野の山城とは比較にならない規模でもある。

 



 大槌氏の通説は説明板の通りでもあるが、次回のエントリーでは「弐」として大槌氏の考察をしてみたいと考えております。
 推察が妄想に・・・そんな場面になり得るかもしれませんが、遠野とも歴史的に関りある大槌、そして大槌氏、その際はお付き合い願います。



 大槌城跡探訪の後は湯っこを堪能して、大槌町図書館へ・・・・。
 
 大槌氏関連の地元でしか見られない資料を閲覧と目論むも、これといった資料に出会えず・・・若干ではあるが、考察に必要な最低限の内容は把握いたしました。


 釜石市、遠野市のコーナーが充実しておりました。
 やはり以前は上閉伊郡の仲間といった大槌町との親密さが伺われました。


 遠野書籍コーナー





 おまけ


 先週土曜日、結婚記念日ということで嫁さんと乾杯・・・肴としたもので一番高かったのがイカ・・・汗・・・笑
 


 いがった・・・イカった・・・笑
 
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弥生つめたい風と雛だんご

2009-03-02 17:00:18 | 遠野
 弥生3月、暦のうえでも弥生という言葉からも春といった雰囲気が感じられますが、北国遠野では、まだまだ寒風が吹き、雪が舞い散る季節でもあります。


 ということですが、3月といえば雛祭り、我家でも娘が二人おりますが、皆それなりに大きくなって、雛人形は物置に眠ったまま・・・汗・・・それでも嫁さんの実家や知人宅から雛だんごをいただき、雰囲気だけは最低限感じるといったところです。








 在郷の各お宅や農家の家々のほとんどが、雛だんごを作って雛祭りを楽しんだ時代がありましたが、今は旧家やお年寄りがご健在のご家庭で作るといったところかもしれない。
 以前は我家でもご近所から木型をお借りして、祖母や母親が作ったものですが、今は貰いもので間に合うといったところです。

 ちなみにあんは煉あんです。






 本日の一曲
 「弥生つめたい風」岩手出身のフォークグループ NSP
 こちら




 おまけ
 
 本日もネネ



 嫁さんのPCを占拠・・・笑・・・人が使うモノ、場所が好きで、どかされる運命なのに何故か懲りない・・・笑
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