「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

鮎解禁・上猿ヶ石水系

2009-07-11 18:47:59 | 遠野
 本格的な夏の到来を告げる風物詩のひとつ、猿ヶ石川(上猿ヶ石)の鮎釣りが7月10日に解禁となった。
 解禁日の10日は前日の降雨や当日の強風の影響で釣果はあまり振るわなかったという話でもありましたが、解禁2日目、太公望達の様子を見に早瀬川まで出かけて参りました。




 第一釣人発見・・・笑








 真剣で一生懸命な姿はカッコイイですね・・・笑


 午後になって掛りが渋くなったそうですが、なんとかカメラマンの期待に応えるべく頑張っていただきましたが・・・・。




 続石(さすが)であーる・・・。



 すばらしい・・・









 釣師は猿ヶ石水系早瀬川をホームリバーとする宝飯爺氏





 本日は午後2時現在で20尾前後の釣果なそうです・・・鮎釣り前半戦にしては、まずまずな数でもあるようです。


 このまま宝飯爺さんには順調に今後数を伸ばしていただいて、来るべき「ぶれんど」屋外の宴の肴としてキープいただけたらと念願しております・・・


 少年の頃、猿ヶ石川には鮎釣師が至る所でみられましたが、小生の住む駒木地区の猿ヶ石川本流にも沢山の釣人が・・・しかしここ20年は川の改修やらで昔の姿が失われ、その流れも変わり、鮎釣師の姿はほとんどみられない川となってしまった・・・やはり何処か寂しい・・・・。

 しかし綾織町の猿ヶ石川やその支流早瀬川は釣人で大賑わい、夏の風物詩でもある鮎釣・・・いよいよシーズン到来となっております。
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テスト撮影

2009-07-09 19:41:56 | その他
 おやっ・・・笑





 蛇かな?・・・笑







 頭隠して尻隠さず・・尻尾隠さず・・・・。



 なんということはなく、この程、導入を検討していた一眼用の三脚を遂に購入、色々と試しで撮影をしてのなんコマということになります。



 三脚としては、さほど高価な代物ではありません。
 以前はビデオカメラ用の安い三脚を使用しておりましたが、知識不足のため、カメラやレンズの重さで三脚のエレベータが効かなくなり、ついにハンドルが破損・・・やはり専用の三脚は必須ということで色々と研究しておりました・・・汗
 






 あっ~~遠野南部流鏑馬をスカッと写すレンズかほすぃ~・・・

 しかし高くて手が出ない・・・



 ところで三脚のエレベーターを最大限に伸ばして足は短くは、やってはいけないこととか・・・汗
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遠野菊池の会09

2009-07-08 21:35:27 | 菊池氏

 遠野の菊池姓の皆様で構成される「遠野菊池の会」総会に出席いたしました。



 2009.7.8 午後6時より・・・むら耕


 遠野菊池の会は平成11年(1999)発足しておりますが、この会を意識しながらもメンバー各位が遠野政治経済で活躍される言わば地元の名士といった方々がほとんどで、小生のような社会的に小物に含まれる者としてはどうしても馴染めない団体、さらに敷居が高いといった位置付けでもありました。

 遠野の菊池姓に関して興味があって調査研究も一応はしておりますが、これといった内容は乏しいながらも、こういった団体に加入してまで、何かを得ようとは思ってませんでした。

 こんな思いながらも何年か経過した昨年、人生の先輩である知人から加入を持ちかけられ、断りきれずに一応加入、会費要員になりそうな思いはありましたが、少しは何か得るものはあるのか?ダメなら脱会すれば良い・・・そんな安易な内容含みで加入してみました。

 昨年の総会は勤務で参加できず・・・今年は丁度休みに当り、しかも会発足10周年記念ということで地元郷土史家の先生の講演もあるとか、これは名だたる地元の名士の方々に交じって埋もれてしまおうとも是非とも拝聴したい・・・そんな思いもあって参加いたしました。




 某郷土史家先生による「青笹菊池氏について」

 当ブログでも過去に取り上げた経緯がありましたが、さらに詳しく見解が述べられ大変参考になりました。
 自身の足で採取した内容が多く含まれ、郷土史分野を目指す者としてはもの凄い刺激と参考になりました。


 ブログ仲間の笛吹氏に郷土史家の先生で小生と親戚の方がおられるようだが、知ってますか?・・・と以前から聞かれておりましたが、今回講演された先生が小生の親戚と判明・・・実は小生としては面識がなかったもので驚いております。
 いずれ多方面にわたってこの分野のご教授をいただければと思っております。





 想像はしてましたが、遠野菊池の会、会員では小生が最年少の雰囲気、少なくても今回参加した総会では最年少でもありました。
 前出の内容でも地元の名士の皆様・・・と記しておりますが、そこは皆同じ菊池姓、菊池一族との流れで立場や年代を超えてお話しができて有意義な集まりでもありました。

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藤原秀親譲状と遠野

2009-07-06 17:43:57 | 遠野史阿曽沼時代
 これから記述する内容が遠野郷土史家の先生方や学者先生方にどれほど検討論議されたのか、また批評されたものなのか、その展開が小生にとっては未だ不明という状態であり、さらにある程度の評価を得て遠野郷土史、特に阿曽沼時代といわれる遠野中世期における通説が書き換えられた、或いはそれに近い内容が識者の間で取り入れられ史実として語られているものなのか?いやっ、全く論外との位置付けで黙殺されたのか?・・・・小生の印象では論外との位置付けでその後の展開に影響なしとした雰囲気が感じられ今日に至っているものと思われます。


 さて、1990年代初頭、古書「阿曽沼家乗」を含む古書の解説を遠野市から依頼された某学者先生による論説が残されている。
 遠野郷土史界にとっては驚愕する内容が多数含まれ、異説と捉える先生方も多数存在したのではないだろうか?
 しかし、何度その論説を読み返しても説得力があると言いますか、理論付けもしっかりしていると小生は感じられ、賛同する場面も多々あります。

 古文書というよりその地域の歴史やら武家の歴史を著す古書の多くは、編纂した側の思い込みや時には故意に操作された内容も多数あると指摘され、それがイコール史実ではないということは皆さんも感じていることだと思いますので、どの古書がそうだとかはここでは記述はいたしませんし、小生のような浅学といいますか学識を持たない素人が言うことでもありません。

 そんな事も踏まえまして僭越ながらも下記の内容について記述したいと思います。






 上記の譲状について、まずは「遠野市史1」での見解は・・・
 結論から言えば、小山氏(藤姓小山氏、藤原秀郷流で阿曽沼氏とは同族・関東の大族)の譲状であり、観応年間は南北朝争乱の時代で北朝方(足利)の小山氏、南朝方(宮)の阿曽沼氏が隣接同士で争い、名目上小山氏は阿曽沼氏所領を自領と称したものとしている。

 後に別見解が示され、概ね次の通りの説が主流となっているものと思われますが、小生もこの説を一応支持している。
 
 この譲状は小山文書の中に入っていたため長らく小山秀親の譲状とされてきたが、譲状の冒頭に「一所、下野国阿曽沼郡内阿曽沼郷・・・」とあること、さらに「陸奥国遠野保・・」とあり、この内容は阿曽沼氏惣領家、すなわち阿曽沼秀親の譲状と史家達が見解を示したものと思われる。
 阿曽沼氏歴代や伝えられる一族に秀親なる名は散見されないとされるが、下野国本貫地には阿曽沼主家が顕在であり、その庶流一族が全国に散らばる阿曽沼氏所領に移り代官として統治していたとする見解で謎の部分も若干残るも概ねこの説で説明がつく内容でもあると考える。(栃木県史研究第12号)(佐野市史)


 しかるに某学者先生の説は・・・

 小山氏の譲状としたうえで、譲状の「陸奥国遠野保・・・」条の次に「同国江刺郡角懸郷・・・」とあることから前出の条は即遠野(岩手県遠野)の事と妄解したためとしている。
 
 小山氏文書陸奥国の条・「嫡子所領分之事」に・・・
 「一、陸奥国菊田庄<加湯竈郷定>遠野保地頭職事。江刺郡内角懸郷半分地頭職事。」とあり、ここでいう遠野保とは福島県いわき地方の遠野と指摘している。
 確かに福島県に遠野という地名を確認といいますか、以前研修旅行で名称変更されていますが・・・笑・・・常磐ハワイアンセンターに行った際に遠野高校が近隣にあった記憶が・・・ホント。

 小山文書の遠野保関連の条は書籍等では未確認ですが、確かに某学者先生の説は説得力があるように思えますが、そうなると下野国阿曽沼郷・・・や佐野庄も小山氏の所領であり、阿曽沼氏は何処に居たのか?阿曽沼氏の一族は安芸国(広島)にも分流があることは知られておりますが、既に下野国の阿曽沼氏は没落していたのか?そして遠野保とは小生の住む遠野のことではないのか?

 ただ結論からいえば、やはり遠野南部家文書にある建武元年8月3日付の国宣、すなわち「阿曽沼下野権守朝綱代朝兼申遠野保事・・・・」この教書は北奥羽検断職であった南部師行に送達された北畠顕家の教書であり、北奥羽管轄であった南部師行が磐城地方(現福島県)の争乱対応の命令を受けることは考えられないことでもあり、やはり遠野は建武年間以前から遠野と呼ばれていたことは間違いないこと、そして阿曽沼・・・とあるように阿曽沼氏に縁のある土地であったことは史実といえます。


 そして阿曽沼の起こりは下野国ではなく、福島の阿沼郡としているが、藤原秀親の譲状が観応年間のものとするならば、下野国阿曽沼郷・・・とあるように以前から阿曽沼という地名ではなかったのか?




 松崎町駒木・・・阿曽沼館跡






 天然の堀と成したと伝わる大沢川




 いずれにしても、どの説も今一度仕切り直しといいますか、さらに詳しく精度の高い研究が求められる内容でもあって、この分野も難解と感じているところです。

 この某学者先生、この後、あまり芳しくない風評やら噂が出て参りますが、このことを以て論説を否定するものではありません。
 ただやり過ぎた印象は否めませんがね。


 
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夏のひっつみ

2009-07-05 19:09:37 | 遠野
 知人から夏キノコをいただく、はて?・・・どのようにして食べたら美味いのか?・・・キノコといえば秋が旬、梅雨時期のキノコはあまり馴染みがないもので料理方法がわからないというより、あまり食べる気は起きないが本音でもありました。

 そこで出番は母親ということになりますが、これは「たもわげ」というキノコで大した美味いとか?
 ひっつみに入れれば美味いということで早速ひっつみを作っていただく・・・・。




 残念ながらキノコ本体の画像を撮るのを忘れておりました。
 薄い黄色のキノコでした。


 久しぶりのひっつみ、具はネギとキノコだけというシンプルな内容ながらも大変美味しくいただきました。
 ひっつみは春夏秋冬、色々と楽しめて美味いですね、遠野に「ひっつみ」あり・・・まさに郷土食だと認識いたしました。



 さて話は変わりますが、盛岡近郊での研修も終わりましたが、盛岡ということで好物の盛岡冷麺を期間中に3度いただきましたが、どれも美味しかった・・・。
 最後を飾って雫石の三千里にて締めの冷麺をいたたきましたが、大盛で締めといたしました。

 三千里の盛岡冷麺、はまりそうです・・・笑



 
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修了しました

2009-07-03 19:38:41 | 
 先月8日から4週間の研修が終了し、先ほど帰宅いたしました。

 約一ヶ月の留守の間に庭の紫陽花も知らぬ間に見頃となっておりました。











 おそらく、間違いなく現職種での長期研修は、今回で最後になると思いますが、色々と実りある研修でもありました。
 今回は寮生活となりましたが、厳しい規律ある内容ながらも緩和されることも多々あり、風呂好き仲間を募り他人呼んで「温泉倶楽部」を結成して毎晩、近場の温泉や健康ランド廻りをしておりました。
 我々の教育課程が27名、半年コースの初任学生が67名、合せると100名近い人数が決まった時間に寮の風呂に押し寄せることも懸念され、入寮して早い段階に独り温泉廻りをしておりましたが、風呂好き仲間が他にも数人いて、いつしか皆で出かけるようになりました。

 3週目辺りからは値段等を勘案して紫波町のラ・フランスに毎日通っておりました。
 まさに同じ釜の飯を食べ、裸の付き合い・・・汗・・・良い思い出となりました。

 また半数近くが喫煙者、何かと煙たがれる存在で社会での悪と見られがちな昨今ですが、「煙倶楽部」に加入して煙の絆を深めて参りました・・・笑


 ということで、なかなか充実し厳しい中にも楽しい場面もあって、そのせいか肥えてしまいました・・・大汗
 これから元の体重に戻す努力が必要と思われます・・・汗



 帰宅すると・・・・



 「お前誰だニャー・・・」と他人行儀な顔付き・・・笑

 「おいおい一週間ぶりとはいえ、その顔はないだろう・・・」


 すると・・・



 とらねこさんだとわかったようでスリスリ開始・・・汗

 なんとか思いだしてもらったようです・・・笑
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