今し方抱いていた母への尊敬や敬愛の念は何処へやら、私は失望の縁に沈むと、がっくりとうな垂れ目の前の床に視線を落とした。それ迄の私は母と並んで縁側の床に四つん這いになり、膝立等したりして母の手元を見ていたが、しょんぼりとして縁側に正座した。
この母を、如何して先程祖母はよく出来た人と言ったのだろうか。私の目に映る母は、確実に些末な人にしか見えない。私は縁側で深く沈み込んだ儘、今日聞いた私の母に対する祖母の言葉を思い出していた。
いい人だ、良く出来た人、お前も見習いなさい。
『見習う?。』
この母を、この人を?。私は心の中で嘆息した。この一件に限らず、目の前の母は日常のあらゆる点で驚かされる事が多かった。ご飯の炊き方1つとってもそうだ。一事が万事なのだ。それを、祖母は今日の日になって私にこの母を見習えというのだ。出来た人だというのだ。私は思った。
『祖母の言う事も当てにならない。』
祖母の言葉も信頼出来ない。祖母自体信用できない人だったのだと感じた。すると、私の心は霞の中に浮き上がった様になり、この世の全ては漫然とした広がりで私の周囲に拡大した。私のしっかりと把握できていたと思ってい自分の世界は捉えどころの無い粒子の漂う空間となって広がった。
如何だっていい、如何でもいい、何でもいい。そんな母の口癖のような言葉が私の心を占めた。そうなのだ。この世の中、何でも如何でもよい事なのだ。きちんと真面目にすること自体が馬鹿げているのかもしれない。私は思った。
先程、この縁側に入るまでは世の指針となる術を身に着けたと思っていたのに、あっという間にまた奈落の底に突き落とされた感がした。私は正座して自分の瞼を閉じると、傍で何やら楽しそうに話し掛けてくる母の声を聞き流した。彼女に返事をせずに黙りこくっていた。
そんな私の暗闇の世界に、遠く女性の声が入って来た。それはよく聞くと祖母の声だ。その声は段々と大きくなり、祖父の声が混じり始めた。彼女は縁側の隣の座敷の入り口から、座敷内に入り何時もの彼女の定位置に迄来て話し始めたようだ。
聞こえて来る彼女の声に、はしゃいでいるなぁと私は白々しく祖母の無責任を感じた。こちらは祖母の言葉の為にこうまで沈んでいるというのに。私は目を閉じたまま、そんな彼女にふつふつと怒りが湧いて来るのを感じていた。
「良かった良かった。」
祖母の嬉しそうな明るい声。何が良かったのだろう?私は思った。落ち着きました。大丈夫だそうですよ。そんな明るい彼女の声と、嬉しそうにはしゃぐ話声に、何が嬉しいんだかと私は目を閉じた儘むしゃくしゃして顔をしかめていた。
傍にいる母は、この頃になると私に向けて話し掛ける事を止めていたが、相変わらず縁側の作業を続けている気配だった。賑やかな座敷内と、人の動きだけで寡黙な縁側は妙な取り合わせの空間として並んで存在していた。その気配を祖母は感じて来たらしい。