台所に1人残って、母の最後の言葉に憤慨しながらぽつねんとしていると、私は自分が所在の無い事に気付いた。如何しようかと思う。廊下の先、居間や座敷のある方向に注意を向けてみた。階段の辺りの物音に耳を欹ててみる。廊下の途中に口を開けている縁側への入り口から、座敷の障子の開いた向こう等、目の届く範囲の、空間の続いている隙間を窺ってみる。が、誰も私の目に入らない。不思議と家の中は静けさに覆われていた。座敷の襖や縁側への障子戸などが開いているのだから家の中の物音は聞こえる筈だ。寒い季節では無いのだ。締め切られて音が遮られる事は無いのだ。
そんな事を推量しながら、私は静けさがしんと染み渡ったような家内の雰囲気を感じ取った。光線のコントラストがはっきりとして来ているこの季節の、夏に向かう気候という物を、ふと、私は焼けてきた素肌に感じ取ると、伸びやかで軽くなり、引き締まった自分の身が心地好い程に軽く躍動的になったと自覚した。そうして、木造家屋の日差しを遮る屋内も心地好く涼やかだった。
さて、結局、階段の部屋まで戻って来た私だった。階段の麓を眺めると、私の予想に反してそこには誰もいなかった。皆何処に行ったのだろう?。疑問に思う私は先ず座敷を覗いて見た。が、そこには誰の姿も無かった。外出から帰ってから、私には疑問だらけだった。
次に私は階段を上ると、先程父といた寝所に達した。父もいないのではないか、そう思っていたが、彼の方はその儘部屋にいた。
その時の父は寝床では無く、彼の文机の前にいて座していた。彼は屈み込むようにして、肘を付き何やら熱心に厚みのある小型の本を覗き込んでいた。そんな父に、私は声を掛けようかしら、如何しようかしらと、躊躇した。