祖父は身を崩した。彼は斜に構えると、
「ああ、そうですか。」
こう如何にも気の無い返事を息子にした。
「なんだその足を出した態度と言葉は!。」
私の父は苛立ちながらも、その自分の父の態度の悪さにやや溜飲が下がった気配に見えた。父は自分の父に対して、何かしらの優越感をここで感じ取る事が出来た様子だった。私が観察していると、父は祖父から顔を背け、影でふふんとばかりに嘲笑した。無学な人間では、その程度の品格の持ち主にしか成りようが無いのだ、と言わんばかりの彼の態度だった。私は家族の為に、商売熱心にここ迄来た祖父と思うと、彼の子で有る私の父が親である彼に取ったこういう態度に、染み染みとした感情が湧いて来た。年を経った祖父を粛々として気の毒に感じた。
「私の好みで来た訳じゃ無いよ。」
祖父は横目で以ってそんな父を物憂く眺め、不平そうに口にした。すると、えっと父は驚いた。「父さんが買って来たんだろ、だから父さんの好みだろうが。」、そう私の父は言うと、また、父さん、いい加減なこと言うなよと、彼は祖父に対して再び怒りを再熱する気配となった。
「私が買ったんじゃない。」
祖父は内の怒りを抑える様に、不満気な口調になると父に言った。
「…買ってあったんだよ。私が商売から帰ってみるとね。」
彼の後に続く言葉は静かであり、終わりに近付くに連れその声は小さくなって行った。「不甲斐ないだろう。男としてはね…。ああ、言ってしまったなぁ。」嘆息!。
これを聞いて、私の父は驚いた様子で、如何いう事なのだと祖父を問い質した。
「それは如何いう事何だい!?。」
自分に説明してくれと父は祖父に言った。自分に分かる様にだよ、と彼は言った。すると祖父はそんな父に、ふふんと悪戯っぽそうな目付きをくれて、それは内緒なんだと言わんばかにほくそ笑んだ。そうして祖父は、私の口からは何ともとだけ言うと、その後私の父がいくら彼をせっついても彼の口は開か無かった。のみならず、私の祖父は押し黙った儘腕組みして身を固めると、そのままの姿勢で黙して決して語らず、頑なに岩に張り付く磯の貝の風情で通した。漸く彼の息子である私の父が渋々諦めかけに掛かると、「詳しくは母さんに聞くといい。」、不満足気な顔付きの息子に祖父はこう答え、この話はこれでお終いだよと一言いうと、彼は彼等父子2人の間の話題を変えた。
「ところで、さっきお前が言っていた、文字の違いとは何の事だい?。」
文字の違い?、はあて何の事だろう。祖父の質問に父は如何にも不思議そうな声を出した。分からないなぁ。とここで、私の父が今迄の祖父の態度への報復に惚けてみせた物かどうか、これは私には分からなかった。
さて、この舞台、私は大人の遣り取りに全く以って着いて行けず、参加はおろか、彼等の話を聞き取る事にも疲れて来た。のみならず、立っている事にも疲れ果て、可なりな疲労感を覚えて来た。私は『おつくわい、おつくわい』と呟くと、その場によいせと膝を着き正座した。
この時、祖父は私の方を向いていたが、父は私に背を向けていた為、私のこういった変化に気付いていなかった。そこで祖父が自分の掌で私を指し示し、父の注意を私へと向けようとした。息子の子である私の変化を、当の親であるお前も気付けと示したのだ。が、父は私の方に振り返らず、向こうを向いた儘で祖父の合図には頷いただけだった。
知っているんだ。見えるのかい?、後ろが?。いや、…、この先の事だよ。この先?。起きるだろう。起きる?。…狂喜乱舞とか、色々。いや、はて、何だろう?。知っているくせに、云々。祖父と父は、それらのヒソヒソ話を互いに話していたが、到頭父が観念したという様で言った。
「他人もそうだが、見たく無いんだ。」
特に、我が子の最後、臨終の場面など。と。
“ご臨終です”か、『確かそんな言葉を遊びの中で聞いたな』、私は思い出した。あれは何の遊びの時だっただろうか…。私は気怠くなり、正座の足を崩すと畳に身を横たえた。それでも何だか何時もの様に私の体は安らいで来ない。何時もなら、身を横たえれば自身の体がグッと楽になり、気持ちも張り詰めていた物が緩んで来るのだ。心身と共に解れ私は安らぐ筈なのに…。
私は休息出来ない自身の現状を疑問に感じた。何故だろう?。考えてみた。すると、グーっと頭痛がして来る。『頭が痛む、さっき打つけたっけ、階段の所の天井板だ。』そのせいだなと自ら合点していると、次にはムラムラと胃がムカついて来た。悪心が起きて来たのだ。グッと吐き気を抑えている内に、ここで私は先の父の臨終だという言葉に思い当たった。もしかするとそれは私の事だろうか、私は死ぬんだろうか、そんな暗い一抹の不安が私の胸に湧いた。うーん、それにしても苦しい。苦しさに声を出してみる。私はその儘ぐったりと畳に伸びた。
そろそろだなぁ。そろそろか。そう祖父が言い、父が答えた。その声にふと気付いた私は、頭痛や悪心が我が身から去っている事に気付いた。すると、睡魔が襲って来た。
眠い、目を瞬く。『そうそう、昼寝しろっていわれていたっけ。』『大人は何でも分かるんだな、私がこうなると知っていたから寝ろと言ったんだ。』。私は寝ようと思う。『ここで?』私はこんな1階のこんな場所で昼寝をした事が無かった。『ここでは行儀悪いんじゃ無いかな、あとで叱られるんじゃ無いかな、起きて2階へ行こうか、如何しよう…。』こう思い惑った。しかし、でも…、眠い、…ねむい。…。
睡魔に抗いつつ、私は云々と言いながら身を捩りつつ、次第に深い眠りの淵に沈んで行った。酷く重くなって来る瞼だ。遂にこれを閉じると、私の視界は闇に閉ざされた。否、でも、未だ私に届く光がうっすらと瞼に映る。私は薄明かりを感じる。この瞼のスクリーンに広がる薄墨の世界。世界を己が眼に薄暗いと感じている私の脳裏にもまた、先程瞼を閉じた時に感じた夜の帷の様な黒い闇が次第に覆い被さって来る。私は頭の中に寄せてくる闇を感じる。次の瞬間、ことりと、午睡に落ちたと私は感じた。私は自分の意識と共にこの闇の淵に深く沈んだ。
終わりだな。一巻の終わり。智の終生これにて一巻の終わり。だ。祖父が芝居か何かの口上のように言えば、
「そうだな、終わったな。終了だ!。」
これは父の声だった。「チョン!」何処かで拍子木の音が鳴った。