この従兄弟の力強い声に、私は来たといえば人の事だな、と考えると、ここへ何者が来たんだろうと思った。
『この部屋へ誰が?。』、特に人の出入りした気配は無いようだが、と、私はそれは確かだと思った。だが、念のため自分の周囲をぐるりと見回してみる。やはりこの部屋、私達の回りには誰の姿も見えない。
私は不思議そうに目を瞬くと、従兄弟に「来たの?。」と、確認した。すると従兄弟は確信した様にコクリと頷くと、「そうだろう。」と言うのだ。
私は非常に驚き、ええっ?とばかりに従兄弟の顔を見た。従兄弟の顔は自信と確信に満ち溢れていた。私はそれならと半信半疑だったが、この部屋にやって来た筈の誰か、目に見えない何者かがいるのだと恐れ戦いた。
私は思わず反射的に自分の片手を口元へと移した。防御する様な形で、私の口元へ添えた手は軽く拳を握り締めていたが、もう片方の手は無防備で、力無く私の体の線に沿って緩やかに下されていた。その片方の手は、実は全く私の意識の外にあった。
私はその体制で、もう一度目だけで自分の周囲をぐるりと探ってみた。やはり人の姿はおろか、何かがやって来た気配さえ無い。実際、空を飛ぶ小さな羽虫さえも、私の目には全く映らなかったのだ。また、私には何らかの異様な物の気配という物は感じられなかった。
さて、私は今この時以前、一寸前迄に、今日私の目の前にいるこの従兄弟の、私に向けて発した様々な言葉を考えていた。するとその言葉の端々に、私は奇妙な引っ掛かりを覚えるという状態に迄なっていた。
『何だか目の前にいるこの従兄弟は、私の知っている何時もの従兄弟とは違う。何だか変じゃないか?。』
首を捻ってこう思い始めると、私は今ここにいる従兄弟がやたらと奇妙な人物に見えて来る。すると、今まで抱いていた従兄弟への親近感が、嫌悪感という感情へと傾き始めた。
私はやや目を怒らせると、その儘自分の目を細くして従兄弟をじっと睨んだ。そうして胸に湧いてきた従兄弟への嫌悪と、従兄弟の言動に対する猜疑、叱責の感情の念でねめねめとした視線を従兄弟に注いでしまう。
すると何を思ったのか従兄弟は、悪びれる気配も無く瞬時に行動し始めた。すいっと私の側に寄って来ると立ち止まり、行きなり私に向かって腰を折りやや平身低頭の姿になった。そうしてその儘の姿勢で、従兄弟は両掌を合わせ合掌した。従兄弟は両目を閉じた。
「お父さんとお母さんが仲の良い夫婦になります様に。」
口を開くと徐に従兄弟は私にこう言った。これは、何と従兄弟は、私に願掛けという物をしたのだった。「そうして次は、」と呟くと、
「兄さんとお母さんが仲の良い親子になります様に。」
「それから、」と、従兄弟はまた呟いた。
ここで、私はハッ!と我に返った。未だ私の前で合掌する姿を留めている従兄弟に、何を言い出すのだと私は慌てた。「まあ、待って、」と、次の言葉を準備中の従兄弟に向かって私は急いで声を掛けた。
「伯父さんと伯母さん、仲良いじゃないか!。」
確かに、私の目の前で、何時もこの従兄弟の両親である伯父夫婦は互いににこやかに笑い合っていた。また、彼等は何かしら笑顔の儘話し込んでいた。ははははは、ほほほほほと談笑する、そんな2人は極めて仲睦まじく私には見えた。そんな2人が仲が悪いなんて、断じて私には思えなかった。
そこで私は従兄弟に自分の見解を主張した。すると、従兄弟は、「外と内は違うんだよ、あの2人。」とにべも無く私の言葉を否定した。まさか!?、私はぽかんと口を開けた。そんな私に従兄弟は言った。
「智ちゃん家こそ、仲良いじゃないか。」
と、これは今の私の反論に対して、従兄弟が逆襲してきた様に私には聞こえた。
私の家の両親は、外では頗る仲が悪かった。実際、外出先で私の両親が、人目も憚らず言い合っているのを私自身が目にする事も多かった。少なくとも、普段の私の両親2人は、彼等の子である私の目にさえにこやかな夫婦では無かったのた。彼等は家の中でさえ、伯父夫婦の様に笑いさざめいてもいなかった。
従兄弟の言葉に深々と考え込む私に、背を向けた従兄弟はその肩越しに私を見詰めて、ふっと笑いの吐息を洩らした。然もありなん、そんな風情で私を見て、従兄弟は言った。
「他人には、外から見ている人間には、内の事は分からないんだよ。人には表の顔と裏の顔が有るんだ。」
と嘯いた。
この時私は、従兄弟の言うことも一理あるなと感じた。何だか思わず納得してしまったのた。そして、直ぐにそんな自分が嫌にもなつた。
「人に裏表の顔が有るなんて…、嫌なものだね。」
私がこう従兄弟に言い同意を求めると、従兄弟は驚いて振り返った。
再び私と相対した従兄弟は、「何故?、変じゃないけど。」と、私の言葉を否定した。そして私が何故そう考えるのかを尋ねてきた。 そこで私は日頃の私の父からの教えを従兄弟に披露した。
人間正直に、正しい考えや行動をするべきだと伝えた。すると従兄弟は、叔父である私の父が言うことだからと、「それはそれで正しいのだろうけれど…。」と、思惑有り気に答えた。
思案していた従兄弟は、
「付け加えれば、表の顔と裏の顔を使い分けて、人間利口に生きなければならない。」
そうなんだよと私を諭すと、従兄弟ははにかみ、謙遜した控えめなしたり顔をして瞳を煌めかせた。そんな従兄弟の顔はというと、如何にもこの世、この真昼の人の居所にどっしりと落ち着き、生命有るものとしての堂々たる存在感に溢れ、生き生きとして見えた。
不思議だ。私はこの従兄弟の言葉に確実に同意出来ないのに、この従兄弟に、目の前の生ある人として語られた道理に、この世に根を下ろした従兄弟の存在感を明確にどっしりと感じるのだ。