私が母の用意したお茶を盆に載せて、重い足取りでしぶしぶと廊下を進み、そっと廊下の端から居間の様子を覗いて見ると、居間は空っぽで誰の姿も見えなかった。私はほっとした。直ぐに台所に取って返して、未だ流しの傍に憂鬱そうに佇んでいた母に向かってあの人はいなくなったと告げた。母はえっ!と声に出して驚いていたが、それ迄緊張していた力が抜けたらしく、よろりとよろめいた。彼女は目に見えて安堵していた。
「ああ良かった。一時はどうなる事かと…。」
脱力した彼女の体を支える為流しに片手を着いて、母はそう言い掛けていたが、私の何思う所の無い朗らかな笑顔を見詰めると後の言葉を飲み込んだ。彼女はむっつりした顔付きになると私に向かって「こうなったのも、大体お前のせいだ。」と言った。
「障子の穴は皆お前が開けた事にしておいておくれ。」
「こんな時は何でも、子供がした事にすれば皆何でも丸く収まる物なんだ。」
と言う。私は面食らい随分勝手な言い分だと思った。さっきの人といい父といい、今度は母までも、まぁ、母の方は元々可なりいい加減な人物だと前以て思っていた私だが、この母の言い分は承服しかねた。
「ねぇ、そうしておくれよ。」
その方がいいんだよ。これも人助けだ。お前は人助けが好きだろう。等々、母は笑顔で言葉を並べて行く。そこへ何処にいたのか私の父が、縁側の方から廊下に出て来ると私達の方へとやって来た。
「いや、よく分かったよ。」
父はそう言うと、何だか不満そうな不服そうな、それでいてツンと取り澄ました生真面目な顔をして、ちらりと私を見ると、お前お祖母ちゃん達の所へ行っていてくれと言う。そしてさぁと言うと私の肩を軽く1つ叩き、私の背をぽんと押して台所から送り出した。
私が廊下に入り縁側に向かうと、「何です。」そういう母のごく在り来たりの声音の声が聞こえて来た。それから、台所でのその後の事を私は知らない。
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