さて、紫苑さんは一口琥珀色の液体を口に含むとその懐かしい滑らかな甘い味を舌の先で味わいました。遥かに幼い頃の過去の自分から、現在の未来に迄至った自分の身上を思いつつ、己が味蕾で今受容するりんごジュースの味わいは、セピア色した写真のようにさえ感じる味覚でした。遠い記憶の澄んだ味覚と現在の物を符合させると、それが全く同一な事に改めて1人感じ入ると、彼の気持ちは、彼の純真な幼い頃の自分に戻ったような心地になるのでした。
彼女と私の間にも純真な感情の流れが有った。紫苑さんは亡き妻との出会いの時の事を思い出していました。彼は目の前に絵画を見るような面持ちで脳裏にその時の事を思い描いていました。
「後どの位かかるでしょうか?。」
その声掛けに紫苑さんが振り向くと、屈託のない晴れやかで若々しい笑顔の女性が彼の顔を見詰めていました。彼はその彼女のトリコロールの色調の襟の色彩にハッとすると、彼女のはつらつとした曇りのない笑顔に魅了され、しばし沈黙して彼女を見詰め返していました。彼女の服装や笑顔、その雰囲気などが将に彼の好みにぴったりと符合していたのです。彼は直ぐに彼女の顔から自分が視線を外せない事を不思議に思いました。
彼女の方は、相変わらず悠然と明るい笑顔を彼に向けて、自分の問い掛けの答えが彼から返って来るのを待っていました。この後、彼女が再度紫苑さんに同じ質問をしたところで、彼ははっと我に返ると、あと2時間待ちですよ、人気のある会館はそのくらい待ち時間が有るのですと、説明したのでした。この彼の物慣れない上がり気味の声を聞いた女性は、如何にも婉然とした笑顔を彼に向けて、優しい眼差しで彼を見詰めると口元を綻ばせました。
ふふふ…。ここ迄マルに話した紫苑さんは思い出し笑いをしました。
「後に聞いたんだがねぇ、」
紫苑さんは相好を崩しました。この時、妻の方は見つけた!と思ったんだそうだ。
「見つけた!、私の物だ。」
そう思ったと言うんだよ。私の事をね。紫煙さんはそう言って恥ずかしげに頬を染めるのでした。「人の恋愛話など面白くもないでしょう。」紫苑さんは自嘲気味な声でマルにそう言うと、照れて咳き込んでしまいました。彼は思わず目が潤みました。聴いていたマルの目もです。
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