紫苑さんは喉の渇きを覚えましたが、これは人様の家の物と思うと、自分勝手に目の前のガラスの戸を引いて中の飲料を取り出す訳にも行きません。この家の主、円萬さんが浴室から上がって来るのを待つ事にしました。
そこで彼はせめて涼を取ろうと考え、坪庭に向かうと、そこで閉め切ってあったガラス戸をがらがらと開きました。ほうっと息を吐くと、彼は外の大気に当たって深呼吸してみました。雨上がりのアスファルトの匂いと、古めかしい曲がった樹木の匂い、湿った苔の匂いが漂ってきます。
はて、この坪庭の塀の向こうは寺の駐車場になっているのだろうか?それとも外の通りに面しているのだろうか?、それにしても、この古い木は梅の古木のようだなと、紫苑さんは思いつくままに推量してみました。
一息入れた彼はその後室内に振り向きました。そこで扇風機の風に当たりたいと感じると、天井を見上げ、頭上に備えられたファンのスイッチを探してみます。どれどれ、ああ、有りました。廊下からの入り口の横壁に、電気のスイッチが何列か並んでいるのが彼の目に入ります。そのどれかがファンを動かす物のようです。彼はスイッチに近付きよく調べてみました。なるほど、スイッチの真下の物にだけプロペラの絵が描かれていました。
『これだな。』
このスイッチを押すとファンが回るのだと彼は思いました。そしてこのくらいは客の私でも触ってよいだろうと考えると、彼はその絵が描かれているスイッチをポンと押してみました。
やはりそれは天井に備え付けられた扇風機のスイッチでした。見上げる彼の目にくるくると羽が回り出しました。羽が回転するにつれ風が頭上から吹き降ろして来ます。この扇風機用のコントローラーが近くに無い所を見ると、これは入る切るの2種類しか出来ないのでしょう。彼は試しにともう一度同じスイッチを押してみました。ぶーん!、羽の回転速度が速くなりました。あら、こんな仕組みなんだと彼は合点しました。
この様に紫苑さんが興味の向くままに脱衣室の扇風機のスイッチでかちかちと遊んでいると、と、風呂から上がって来たマルの目には映ったのですが、彼の湯上りの赤い顔を見た紫苑さんの方は、彼なりに気を利かせてファンの回転速度を上げました。
ゴー!、しゅるしゅるー。
「おお、これは、涼しいですなぁ。」
マルは思わず感嘆して天上を見上げました。
「なんと便利な物ですな、こんな風に使う物だったんですね。」
マルが感心したようにこう言った物ですから、紫苑さんは真顔でえっ!、と、驚きました。そしてすぐにマルお得意の何時ものジョークだなと判じると、ハハハと笑い、
「左様左様、飛行機のプロペラはこの様に回転させる物のようですな。」
と、澄まして答えました。
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