「え、えっと…。」
私は口ごもった。
別に、と言いつつ私は目の前の母から目を移し、ガラス戸の向こう側、中庭へと視線を外した。そして、庭を見ていると答えた。この私の答えに、母は俯いたまま小さな溜息を吐いた。この母の溜息を聞くと、彼女は私が彼女と顔を合わせたく無かった事を悟ったようだ、と私は思った。すると、
「今、お前と話をしたく無くてね。」
と母が言った。私はそんな母に、お仕事中だものねぇと如何にも的外れな言葉を返した。彼女は別にそうじゃ無いけど、と言い掛けたが、不意によいと掛け声をかけて腰を起こすと床に正座した。彼女はきちんと私の方へ顔を向けた。じいっと私の顔を見つめた彼女は、
「お前の方こそ私と会いたく無かったんじゃないのかい。」
と確信を衝いて来た。そう言った母は何だかしんみりとして元気が無かった。
「お前がそこに来た時から、私にはお前が見えていたんだよ。」
そうも母が言うので、やっぱりねと私は思った。何時もの彼女のおふざけは何処へやら、今日の母は真面目に私と向き合う気らしい、私はそう感じた。
母が縁側の奥にいて、振り返った時目が合った様に感じたが、やはりあの時母は私に気付いていたのだ。今迄知らんぷりして床を磨いて、見て見ぬふりをした儘で、彼女は私がこの場を通り過ぎるのを待ち、私の事を遣り過ごしたかったのだろう。それがここに何時まで私がもまごまごしていたものだから、彼女の方がしびれを切らして私に話し掛けて来たのだ。
何時に無く生真面目な母の様子に、私も真摯になってそうなのかと口に出して尋ねると、とたんに母の顔は曇り不機嫌になった。
「分かっているなら、そうと言わずにさっさとこの場から姿を消しておくれ。」
「本とに、お前って嫌な子なんだから。」
と、彼女はぶつぶつ言い、不満そうな視線をじいっとこちらに向けた儘でいた。
「私、いなくなった方がいいの?。」
私はそう彼女に確認を取った。そうなんだねと言うと、そうだよと彼女は言った。
「大体お前は、話をしたく無いなら無いで、如何してここ迄やって来るんだい。子供らしくない。嫌なら嫌でしなければいいのに。」
そう言った母の目は不機嫌から気の毒そうな憐れみの目付きに変わった。私はここ迄来た生真面目な自分を母が可愛そうだと思い、同情しているのだと感じたが、この時の私には嬉しくなかった。どちらかと言うと私の自尊心は傷ついた。
「ここに私が来ると分かっているのに、途中で引き返して来なかったら、それこそお母さん、嫌な気持ちになるでしょう。」
私という子供に嫌われていると分かるでしょう。そう私が言うと、母はややハッとした感じで考え込んでいたが、一寸嫌味な微笑みを浮かべた。
「お前、じゃあ私の為にここ迄やって来たんだね。」
何だか意味ありげに笑顔でそう言う母に、私の中の天邪鬼が頭をもたげた。
「子供に嫌われる母親が可愛そうかなと思って、…来ただけよ。」
「お母さんが可愛そうでね。」
そう私が言い、付け足すと、母は明らかに気分を害した。むっすりとして俯くと、その儘無言になった。
この場の母子の気まずい雰囲気に、私はそれ迄動けずにいた体、自身の足を思い切って動かしてみた。
『動くかしら?。』
私は内心心配だったが、私の足は普通に軽く動き出した。よし!、空かさず私は先程の母の指図を実行した。彼女が希望した通りその場から姿を消した。素早く私は廊下を進み、台所へと達すると、洗面台に立って蛇口を捻った。私はそこで、漸く外出帰りの自分の手を綺麗に洗う事が出来てスッキリした気分になった。
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