その後祖母は沈黙を続けていたので、気詰まりという言葉も未だ分からない私だったが、何かこちらから声を掛けなければいけないという様な考えを持った。そこで未だ横顔しか向けて来ない彼女に対して、今迄の彼女の言葉の内から、私の使えそうな言葉をあれこれと思い返してみる。そうしてせっせと彼女に向けて言う言葉を考えてみた。
「お祖母ちゃんとお祖父ちゃんには怖い物が有るんだね。」
私は祖母の顔をそれとなく窺いながら漸くそんな言葉を掛けた。それから遠慮がちに、それは困った事だね。そう付け足してみた。こんな風に私が祖母に声を掛けると、祖母は未だ横顔を向けた儘だったが、私の言葉に耳を傾ける気配が窺えた。もう少しだな、と私は思った。彼女の顔と気持ちを普段の様に私に向けるには未だ更なる言葉が必要だと感じた。そこで私は再び次の言葉を考えてみた。今し方の祖母の言葉を順に考えた時、私には特に興味を引かれた言葉があった。それを彼女が喜ぶ様なお愛想を込めて言ってみようと私は即断した。
「お金が沢山あるんだね。お祖母ちゃんにも。」
と、微笑みを称え、明るくにこやかに彼女に声をかけた。蓄えがお金の事だという事を、私は今迄の祖父母間や、彼等と私との間の語り合いから学び、既に聞き知っていた。しかし、一家の大黒柱である商売人の祖父に、大きな資産が有るのは当然と思い、そう聞き知っていても、祖母に迄となると、それは私のこれまで得た知識の範疇を超えていた。私には未だ想像さえ出来ないでいた事だ。これは私に取って生まれて何度目かの未曾有の経験である。この未知との遭遇に、私の心中はこの経験を新鮮な感動で受け止めようとした。大きく心を開いて、彼女の一挙手一投足を見逃すまいと眼を大きく見開いた私は、先ず祖母の顔つきを見つめた。
「お祖母ちゃん、女なのにそんな大きなお金が有るなんて偉いんだね。」
これは私にすれば心中半信半疑の出来事だった。何故ならば、私にするとこの世の中は未だ男尊女卑の世界であり、私はその真っ只中にいたからだ。私が住むこの近辺は、古い商店が立ち並ぶ老舗の街といえた。何処も旦那さん、だんさんという諂いの言葉が飛び交い、奥さんの方は皆揃って器量よし、場に花を添える存在が目立つご時世だった。確かに、商いの腕が立ち、おかみさんの切り盛りが目立つお店も有るにはあったが、ごく少数で、そこにはご主人も必ず居て、でんと構えたその店の要として店先等にいたものだ。それまでの私の認識では、こと収益に関する経済で女性の影は薄かった。全く皆無と言ってよかったのだ。私は女性としての祖母の蓄え、それも可なり大きいという箇所に、俄然興味を持っていた。
「初めての経験は大切にしろよ。」
父は私の初まってそう長くない人生経験での、いくつ目かの初めての感動話を、ある日聞いてからこう言ったものだ。「そんな感動も、新鮮さが有る物は段々と数が減るからな。」、これを世慣れると言うんだ。お前も今の内にそういう経験を味わっておくといいぞ。新鮮だからな。そんな感情。そんな事を言った。皆目実態の捉えられない私に、
「兎に角、自分にとって初めての事は、自分の目も心も大きく開けて受け止めようとする事だな。」
と言うと、うんとばかりに、それは自分の人生で新鮮な物だ、と、彼は結んだ。