七月のはじめ、といっても既に一日の大半は過ぎあと二時間です。今年
も後半に入って早くも第一日目が過ぎます、こんな言葉があります。
≪人間の一生をかりに七十年といたしましょう。七十年を日に直せば、閏年は
ないものとして二万五千二百日になります。もし四季の推移を暦に合せるた
めに、一年おきに一カ月だけ長めるといたしますと、七十年間に三十五カ月
の閏月が入ることになり、これを日に直せば千五十日となります。さてこの七
十年間の合計二万六千二百五十日の内、一日として全く同じ事が起きるとい
うことはございません。さればクロイソス王よ、人間の生涯はすべてこれ偶然
なのでございます。≫(ヘロトドス 『歴史』)
「偶然」のいえば、こんな言葉も。
≪成人男性の1回の射精では約5億匹の精子が放出されるそうです。そして、
自分の体長(100分の6ミリくらい)の何千倍、何万倍の山あり谷ありの道を走破
(泳破?)して、卵の膜を破ることができるのはそのうちわずか10匹、そしてつい
に卵のなかにはいることができるのはただ1匹です。この精子は仲間のなかだけ
で言えば5億倍という競争を勝ち抜いたのです。(略)
ある助産婦さんは、精子と卵が出会って受精卵になる確率は、海底に落ちてい
る1円玉を探し出せる確率より小さいとどこかに書いておられました。≫
(徳永俊明 『「生活」とは何か』)
「必然」とは「偶然」ではないということです。
山宣の記念碑の碑文として書かれようとした、
「好むにせよ好まないにせよ、やがては来るその日の為に」
は、人間の意向にかかわらず「必ず来る日」がある、と。
そして、そのことを時の権力・天皇制政府はもっとも恐れていたこと、
をこの碑文を巡ってのやり取りは示しています。