今日の「しんぶん赤旗」文化欄の見出しはご覧の通りです。その書き出しは
「今、NHKで人気を集めているのが朝の連続テレビ小説 “花子とアン” に登
場する伯爵令嬢と炭鉱王の物語だ。それは私(歌人永野朝子)の故郷の炭鉱町
で起きた柳原白蓮と伊藤伝右衛門の結婚話が下敷きになっている」。
大正三美人のひとりと称された白蓮の離婚について、当時の新聞に中条百合
子(後の宮本百合子)が次のように述べています。(1922/10/24読売新聞)
「私は白蓮さんの歌を拝見する度に、ある小さな不満を感じていました。あんな
に歌で自分の生活を呪ったり悲しんだりしているが、実生活ではまだ富の誇りに
妥協して、二重の望みに生きているという気がいたしました。そして、今度の事件
を見ますと、しみじみ女としての理解と同情の念が湧いてきます。(略)
夫人がこういう思いつめた最後の手段に出るまでには、どれ位人知れぬ悩みを
重ねていたか、決してこれは浮わっ調子な笑い話ではないと思います」。
百合子が「小さな不満」を感じていた歌とは、永野さんの引用の
石の床石の枕に旅寝して/あるが如くも冷たさに泣く
年経ては吾も名もなき墓とならむ/筑紫のはての松の木かげに
などでしょう。
そして、白蓮が夫伝右衛門に送った離縁状を載せた大阪朝日新聞(10/23)は、
「愛なき結婚と夫の無理解が生んだ妻の苦痛と悲惨の告白」と書きました。
その後宮崎龍介(ドラマでは宮本龍一)と結婚、召集された長男を敗戦直前空襲
で失います。そのことを永野さんの引用する歌でみます、
夜をこめて板戸をたたくは風ばかり/おどろかしてよ吾子のかへると
英霊の生きてかへるがありといふ/子の骨壷よ振れば音する
これについて、永野さんは「焦土の原に、いとし子を詠んで嘆く。その深い悲しみは、
戦後、平和運動へ身をていしていく新たなバネとなった」とし、広島・長崎への憤りと励
ましの歌を紹介しています。
この犠牲が世界平和の道しるべ/わがをとめ等よ泣くのでないぞ
人の世にあるべきものか原爆の/いくさは遠く根の国へゆけ
永野さんの文の最後、
≪いま、安倍政権が再び日本を戦争のできる国にしようとしている。しかし、「戦争反対」
の声は連日、首相官邸をとりまき膨れあがっている。その中に数多くの白蓮の姿が、あり
ありと、私の目には映っている。≫
白蓮が己の存在の自由を求めていた時期、1922年7月15日日本共産党が創立され、
今日がその92周年です。