葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

メール山から…。

2014-08-26 20:40:47 | 信州、なかでも上田。

 午後の予定がキャンセルされたので、普段使っていないメールをみたら、

ひとつに134通、もう一つは555通未読のままになっていました。ほとんど

は企業からに案内等でしたがなかには個人からのものもあり、読んでお詫び

をしたところです。

 これもその1通で、国宝三重塔と「山宣の碑」。  2014-06-25 

で私が 「その後のことなど“実弟さん”が語っていただければ有難いです」と

言ったことに応えてくれていたものでした。6月27日にとどいたいたのです

が、メールの山のなかに置き去りにしていました。

 お詫びをして、ここに記しておきます。

その後の事は、小生もいまの活動(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟:詳しくはhttp://chian.yokochou.com/をご覧ください)をするまでは詳しいことを知りませんでした。若い時から、「山宣」大好き人間だったので、長野山宣会に加入して、平林堂の社長と懇意になってからです。

 同盟が年2回発行している雑誌「治安維持法と現代」に特別寄稿として別所温泉の山本宣治記念碑を書いてもらったことがあります(2009年秋季号133ページ)。それによると作家の高倉輝氏が、敗戦直後の10月、豊多摩刑務所から釈放され、信州の別所に家族と共に畳なし戸障子なしの農家の蚕室に居を構えたのが1946年2月だったそうです。この4月、戦後最初の衆議院選挙に共産党から立候補し当選する。そのあと1950年6月の参院選でも当選したが、アメリカ占領軍により公職追放され、海外で暮らして9年後の1959年4月に帰国(当時69歳)。6月の参議院選に立候補すれど落選。

 以降、東京の三鷹の自宅と上田の間を行ききする生活を送っていた。当時、平林茂衛氏は、国鉄をパージされ、小宮山量平氏などのアドバイスを受けて書店を開業。2階は、共産党の地区委員会事務所だった。そこへ高倉輝さんも良く泊っていたようです。その年の暮れ、別所温泉の柏屋別荘の主人斎藤房雄さんから平林さんへ「高倉先生が東京から来られた折にお連れしてほしい」との連絡が入り、連れて伺うと、「実はあのときの碑(山宣記念碑)は、お預かりしていましたもでお返しします」と言われ、全く予期しない話に高倉氏も驚愕された。

 こうして粉々にされたはずの記念碑が再建されたのです。1971年10月8日、京都から遺族の山本平治、山本英治、井出美代をはじめ谷口善太郎代議士など列席、200人に及ぶ参列者で盛大な除幕式が行われました。その後、「長野山宣会」を結成、毎年春に総会、秋には碑前祭を続けています。

 平林さんは、このことこそ、この地方特有の「進歩と革新の伝統」の一駒だと言っています。江戸期の農民騒動の発生件数の全国一は信州、その中の一位は上田藩で、特徴は数十年ごとに五回も繰り返されたが、死罪承知の首謀者は何れも「義民」の宮・神・墓として例外なく村人達によって祀られている。

 明治期になっても世直し一揆・自由民権運動等でも主役を演じたが、帝国憲法公布後の、日清戦争が終わって数年も経ているのに、子供たちに、軍歌を唄わせることを批判して、真の愛国歌・郷土愛の歌として「信濃の国の歌」をはじめ七歌曲をつくったこと、また、わが国初めての社会主義新聞(平民新聞)取扱所全国七ヵ所のうち一ヵ所はここで、青年たちが読み合わせ会を始めている。大正期になると、自由画教育や農民美術運動、自由大学運動等全国はじめておこなっている。

 まだまだ続くがこのへんでおしまいにします。

 

 以上です、若干書き直しもありますがご了承ください。

 “実弟さん”有難うございます。「長野山宣会」の碑前祭の様子などもお伝え下さい。 

コメント (6)
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