「明けましておめでとうございます」も今日の昼間のうちでしたら書いていてもその気になれるのですが、あと2時間半で1日も終わる時刻ではどこか間の抜けた気持ちです。
でも今年は2月29日の1日分多いことですから、明日から365日がはじまる、ということで気持を取り直し、
明けましておめでとうございます、今年も「つぶやき」にお付き合いのほど宜しくお願いします。
秋元不死男『俳句入門』の季語「冬の水」についての一文が残っていますが、この場ではお正月にふさわしく『秋元不死男俳文集』から「正月の俳句」に鑑賞されている俳句の紹介にします。
元旦や枯菊残る庭のさき 正岡子規
明治二十八年の作で子規二十九歳。元旦のわが庭前をみると、老残の風姿をさらして枯菊がひとむら立っている。過ぎた秋には開花を句によんだこともあったが、いまは互いにもたれあって、わずかに身を支えている。それだけをみるていると正月のめでたさはないけれども、見なれてきたこの枯菊にも新しい年がきて、やがて秋になればまた花をひらくことだろうと思うと、やはり新年の希望の心がわいてくる。
大空に羽子の白妙とどまれり 高浜虚子
昭和十年の作虚子六十二歳。「とどまれり」が実にいい。空に打ち上げられる羽子~はっきり目にうつる。「白妙」の古語を用いたところに一段と優雅な味もでている。「白妙の羽子」と言わずに「羽子の白妙」と倒置し、初御空に象徴された羽子の白さを強調したあたり、手練のさえをみせる逸品である。いかにも正月らしい清新な一句である。
日の障子太鼓のごとし福寿草 松本たかし
正月の日光に当たって縁側の障子のおもてが、あたかも太鼓の面のふうにピンと張っている。床には福寿草の鉢がおかれてある。「太鼓のごとし」と喩えたところが眼目の作で、打てがひびくような日の当った障子の感じが直截に快くとらえられ、類推の確かさをさまざまと感じさせられる句だ。その快感に福寿草を配して、いかにも新年のめでたい気分を放出している。昭和七年、作者二十七歳のときの作品。
元日や手を洗ひ居る夕ごころ 芥川龍之介
元日の早い夕暮れどき、ひとり静かに手を洗っていると、なにか一種、はかなさにに似た感じがわいてくる。元日の暮れていく情緒はたしかに哀愁的で、何かわびしい。その感じが、しっとりとした調べにのって「夕ごころ」の哀愁感をつたえる。
あと四句あります、長くなりますので明日に。