葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

季語「冬の水」その6

2016-01-03 20:26:16 | kaeruの五七五

今日午前の歳旦祭後幟を降ろして大晦日の夜からの初詣は終り、家で少し寛いでいたら、妻がこれからお寺へ行こうと言います。寛ぐといっても出し残しの年賀状を作らなければと言い訳を言って行ってもらいました。

さて「冬の水」の方もあと三句残っています。

5、木々の枝うつして冬の水しづか

6、冬の水枝影うつしなほ澄めり

7、冬の水一枝の影も欺かず

秋元不死男の見方は、5と6についてからはじまります。

《 これらの句も3、4、とおなじように、写生に立脚している。観察もまえの二句よりすすんでいるし、心のはたらきもうかがえる。~しかし、ここでまた問題がでてくるのだが、心のはたらきがでていればよいといっても、それは一句全体に沁みとおり、しかもそれが表面化せず、~いいかえれば、心のはたらきが説明としてでていてはつまらないということである。》

《 この二つの句は、枝影をうつして冬の水はしずかに澄んでいる、それをみているじぶんの心もおなじようにしずかに澄んでいる、ということを「水しづか」「なお澄めり」といっていて、その感じがしっとりと全体から感じられない。つまり説明で出ているのである。》

《 本来をいえば、こういういわば閑寂な感じは、「しづか」とか「澄む」とかことばでナマにいったのでは伝えられないのである。だから隠して伝える。技術的にいえばつよく示すために隠すのである。》

といって芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」を示し、「蛙飛びこむ音しづか」などとはいっていないことを指摘しています。《 そういってしまえば、水の音は静かに消えてゆかないで、かえっていつまでも耳につく、それがうるさくなるのである。》

《 もともと閑寂と幽玄の世界は、知的な世界ではない。いわば情調の世界である。~だから、これを説明でなく、象徴で示すほかはあるまい。ほんとうをいえば、感情や心ではいえないともいえる。感情や心にまとまるまえの、そのときの刺激によって生じる刹那の感じをとおして、内奥のものをつかむという方法によらざるをえなくなるとも考えられる。》

《 5、6、の句にもどっていえば、作者の心が「水しづか」とか「なお澄めり」ということばで、小さくまとまって説明されているのがいけない。それが言外にかくされ、且つ全体にしみわたる象徴のよさで示されていないから、ものたりないといえるのである。》

ということであと残ったのは7、です。

《 かようにみてくると、以上の六句はみないい句ではないという結論になる。ところが最後の句はちがう。》といって

冬の水一枝の影も欺かず

について《 この句のどこが他の句とちがうのであろうか。》を述べていくわけですがその内容は明日にします。

コメント (4)
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