冬の水一枝の影も欺かず がどこが他の句とちがうのか と秋元不死男は問いかけ、この句は1の句とたいへん似ているとして比較しています。
《 1 冬の水木影うつして偽らず
7 冬の水一枝の影も欺かず
こう並べてみると「偽らず」が「欺かず」に、「木影うつして」が「一枝の影も」となっているだけで、両句とも意味はおなじではないかという反問が出そうである。なるほど意味をいえばそういえよう。しかし両句を並べて一句全体のニュアンスのなかでこの字句をみると、まったく両者の迫力のちがいに気がつくのである。かんじんなことは、作品を切断せずに全体で味わうことである。》
《 「一枝の影も欺かず」についていう。このつかみ方は、短いことばのなかで、針のように鋭くとがった数々の枝とその枝先を、くっきりとわたしたちに映像させる。それは神経をみるような鋭敏さで、水にうつった木の枝を、文字通り一枝も見のがさず、精密にわたしたちの網膜に焼きつける。これを印象というが、わたしなどは俳句をつくる人間だから、むしろ、このことば、そしてこのことばが他のことばと関連して造形的はたらきを果たしている、その手際におどろくのである。》
《 (そのおどろきとは)「一枝の影」が、そのあとにつづく「欺かず」によって写実的に生きたことなのである。このことばとことばのふしぎなつながりを、わたしたちは見なくてはならない。そういう写実の確かさが映像として読者の頭にくっきりとうつしだされると、それは見る自然以上に真実に、自然を見て感動する以上に感動するのである。自然はあるとおりの自然ではなく、もっと飛躍した、もっと力を張った自然になる。自然をみておどろかなくて、かえって芸術をとおして自然におどろくことのあるのはそのためである。この句にはそういう意味で見た自然より、もっと力の張った、もっと透明な自然の生命が描かれているといえるのである。「木影うつして偽らず」などというのとはまったくちがう。この詠み方がつまらないのは、まえにいったとおり理屈であって対象を描こうとしたものではないからだ。この根本の相違は、いまいったことでわかってもらえたかとおもう。》
かなり長くなりましたが、このあともかなり長いのです。そして、《 結局、いい俳句、つまらない俳句の判断はその俳句に生命があるかないかの判別である。》ということになっていくのです。
俳人秋元不死男の俳句入門として一番最初に、一番いいたかったことにつながりますので、明日もつづけたいと思います。