現在の上田城が真田時代の城ではないことは知ってはいても、その築城の経緯など考えることもなく「上田城=真田幸村」位の受けとめしかなかったので、今回は勉強になりました。
その辺を『真田三代の挑戦』(NHK出版)に書かれていることを記しておきます。
【 徳川家康が真田昌幸を押し立てて北信濃へ侵攻することを警戒した上杉氏は虚空蔵山城の防備を固めた。天正十一年(1583)三月、真田昌幸等は虚空蔵山城を奇襲し甚大な打撃を与えた。家康は昌幸のもとへ援軍を派遣し、四月、尼が淵で築城を開始した。これが上田城である。
昌幸が徳川軍とともに上杉方の虚空蔵山城の眼前に築城を始めたことを知った上杉景勝は、ただちに北信濃衆を集結させ、上田築城を妨害して撃破するよう指示した。上杉方は続々と虚空蔵山城に向けて進軍を開始した。だが上杉軍に、深志城主小笠原貞慶が家康の要請を受けて麻積(おみ)城に侵攻しているとの情報が届いたので小笠原軍を迎撃するため進路を変更した。
危機を脱した真田・徳川勢は、上田築城を完成させた。この城は徳川軍が構築した徳川の城であったが、天正十一年(1583)八月二十四日、家康は上田城を昌幸に与えた。沼田城明け渡しが条件だった。だが昌幸は上田城を拝領したものの、沼田開城には応じなかった。
家康からの沼田引き渡しを昌幸が拒絶したことは関東の諸将に伝わった。この時家康が昌幸に強く出られなかったのは、上杉との対立が深刻だったからであろう。家康がこの直後に昌幸に上田城を与えたのは、あくまで昌幸を宥めようとしてのことのようだ。】
今夜の「真田丸」は「妙手」でしたが、城こそ「手」そのものであり、また様々な「手」を生かすのも殺すのも城であったのが戦国時代というものだったのです。城を見る目が深まりました。