これはNHKの「真田丸」関連サイトの一部です。ここに「誤解されがちですが」とあります。何が?
例えば上田市立博物館刊の『郷土の歴史 上田城』(平成22年3月第6刷)の「はしがき」にも「昌幸の築いた上田城」とあります。本文も「昌幸によって、上田築城が開始された」とあります。「上田城は真田昌幸がつくった」という誤解です。
全体は 上田城は家康が築いたってホント? nhk歴史解説 に目を通してみて下さい。
さて、家康が築城した上田城がどのようにして昌幸のものになったのか?
そこに書かれているのですが、【徳川氏が築いた上田城が、昌幸のものとなった経緯についてはわかっていません】と。これを書かれているのは黒田基樹さん、「真田丸」の時代考証を担当されている3人のうちの1人です。
昨日の「つぶやき」で、【 天正十一年(1583)八月二十四日、家康は上田城を昌幸に与えた】としたのはNHK出版の『真田三代の挑戦』からの引用ですが、著者は平山優さん、この方も同時代考証を担当されています。
もう1人の担当者の丸島和洋さんはどう言われているか。それは同じくNHK出版の『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 真田丸』に書かれています。【上田城は、「徳川の城 」として築かれることになる。いつの間にか昌幸の本拠となるが、~】
ドラマを観る者としては「分かっていません」や「いつの間にか」より「天正十一年八月二十四日、家康は上田城を昌幸に与えた」の方がずーっと面白いのですが、「天正十一年八月二十四日」と年月日を特定した資料はどういう物だったのでしょう。
例えば家康から昌幸に与えられた約定書のような物として、それを信幸信繁に見せながら昌幸の顔がニンマリするシーンがあったりすると誠に面白かったと思うのです。それは真田家が徳川家の挑戦をその城に拠って二度にわたって退け、後には信之は徳川の元へ、信繁が家康を追い詰めることへの伏線のように見えたでしょう。