広島へは原水爆禁止世界大会参加で行ったことがありました。第9回の時だったはずで、今検索したら1963年のことで53年前でした。いわゆる分裂大会で歴史に残る会場にいたわけです。
参加するにあたって当時の東京港区田町駅頭でのカンパ活動や周辺の家々を廻り署名をもらいながら募金を募り広島へ向かったものです。爆心地広島にはそいういうつながりがあるのですが、長崎へは仕事場の同僚と慰安旅行の先というつながりしかありません。
記憶に残っているのは石段の坂の街と平和公園で、原爆資料館の記憶はありません。それだけに一度は原爆の被爆地・長崎をきちんと足で立ち目で見ておかねばと思います。
消えてより蜥蜴の蒼さ長崎忌 鍵和田秞子
被爆地としての長崎で訪れなければと思うのは浦上天主堂で、ここでも水原秋桜子の句を紹介したことがあります、「長崎、二つの天主堂」 でした。
長崎在の医師下村ひろし(1904〜1986)の句を三句、
浦上は愛渇くごと地の旱 下村ひろし
水乞ひし人は屍や西日没り 下村ひろし
原爆症診て疲れ濃き秋の暮 下村ひろし